父が偉大なのはそれを伝える娘がいるからか?
『この父ありて 娘たちの歳月』梯久美子
題名に父とだけあるが、その陰には母がいるというエッセイも多く、また父の姿も立派な父だけではなくどうしようもない父もいて面白かった。齋藤史と父の関係を読みたいとおもったのだが、最初に登場したのはその2.26事件で暗殺された渡辺錠太郎大将の娘だった。最初から濃いいドラマで圧倒される。島尾ミホは『狂う人』の続編のようなエピソード。また齋藤史は短歌中心で、二人の詩人、石垣りんと茨木のり子も詩が掲載されていて、その詩が良かった。この二人は正反対の父だったようだ。境遇も正反対だけど親友だという。
渡辺和子
2.26事件で暗殺された陸軍大将渡辺錠太郎の娘。当時父の暗殺される現場を隠れていた押入れから目撃していたという。その後18歳でクリスチャンになり29歳で修道女になったという。父の話よりもその後の母との葛藤の話が興味深い。
母は娘たちが早く自立できるようにと娘を大学にやった。それでも父を忘れられない娘と口論になるのだ。母は小学校までしか出ていなかったから躾が厳しいと感情論で反発していたという。そんな母がクリスチャンになるという。最初は家が仏教徒なのにと言って反対していた母が、父よりも和子とあの世では一緒になりたいと言ったのだった。
2.26事件のわだかまりはなかなか消えずにTVドキュメンタリーで実行部隊の伝令と一緒になったときは、コーヒーが飲めなかったという。言葉ではいくら許していると言っても心の中は正直だった。50年後の法要(相手側の法要だ)に呼ばれたときに相手の親族が頭を下げたので、親族は自分以上に苦しい人生を送ってきたのだと理解したという。
齋藤史
この本を借りたのも齋藤史のインタビューが読みたかったからだ。最初に暗殺された大将の娘側のインタビューを読むとは思わなかった。史のインタビューはなかった。歌人だからほとんどその歌で気持ちを伝えているからだろうか?ポイントとなる短歌は素晴らしいものばかりだ。
史が1980年に父の斎藤瀏と暗殺された渡辺錠太郎の一緒に建てられた石碑を見て石碑とは違う感情の歌を詠んでいた。石碑の歌は、
とある。実際に史は暗殺された渡辺和子に一度も会ってはいなかった。史の本音と建前が伺われる歌だ。
この短歌を作ったときに史は妊娠していた。後に史は「暴力が美しいはずはありません」と明言しているのである。作者と作中人物(主体)とが虚構の中で違っているのは小説世界では当たり前のことなのだが、短歌では作中主体と作者が同一されがちなのだ。少なくとも齋藤史はモダニズムを生きた歌人なのである。そして以下の歌も残していた。
史の二面性を見ていくと面白い歌があるのだ。幼馴染の栗原中尉を歌ったうたも、
先の歌は公の歌のような感じだが私的な歌は後者だろう。史と栗原は北海道の広大な大地にアイヌが残した矢じりなどを探したという。史が栗原の思い出は後者なのだ。
安藤と最後にあった時に史は弾丸を貰ったという。矢じりが弾丸になったのだ。
その安藤中尉を詠んだ歌だと思われるが、史の代表作になっている。
猫背の老人は父を詠んだものである。父の最後を看取り、そのときのもう一つの歌。
史はその後、歌会始の招人になり天皇と談笑する。
史は生前に出した歌集は十一冊にもなるのだ。「子守うた」と言いながら止めることはなかったのだ。
島尾ミホ
島尾ミホについては『狂う人──「死の棘」の妻・島尾ミホ」に詳しい。
この本はその続編というような内容で、加計呂麻島の村長の父は義理の父でミホには別の父がいて東京で料理屋を手広く経営していたので、女学校で教育を受けるように東京に出されたのだった。そこで教師となって戻って来るが、実の父は当時芸者の妻がいたのでミホは東京では貧しい生活をしていたという。
それで加計呂麻島の義理の夫婦をほんとうの親のようにミホは小説にも書いていたのだ。
そして義理の母は戦時中になくなり、アメリカの占領下に養父を置き去りにしたまま島尾敏雄との結婚生活が始まったのだ。養父はその後亡くなるがミホは葬儀にも行けなかったので、結婚生活には後悔の念があったのだ。
石垣りん
著者は教科書に載った「表札」や「くらし」は模範的な詩で好きになれなかったという。そんな著者が「きんかくし」に度肝を抜かれる。
「きんかくし」は金子光晴「せんめんき」といい勝負だな。
辺見じゅん
辺見じゅんが角川の創業者角川源義の娘だとは知らなかった。また角川源義が折口信夫の弟子だったということも始めて知った。それで最初に短歌雑誌を立ち上げて、もともとは俳句の人だったので俳句雑誌を作ったのか。このへんのところも興味深い。
萩原葉子
の父は萩原朔太郎。詩を書くしかないダメ親父ぶりだった。石垣りんと似ているが、萩原葉子はお嬢さんタイプかもしれない。なかなか自立は出来なかったというが、ある人に勧められて父のことをエッセイや小説にしたという。読んでみたい。『天上の花』は映画で観た。これも酷い男の話だった。
石牟礼道子
石牟礼道子の祖父は石工で芸術肌の人で儲けなしで金を注ぎ込んで公共事業をしたので、後に貧乏生活を強いられたのだ。石牟礼の名前には、石がゴロゴロと群れをなしているから付けたという。石牟礼道子という名前が祖父の妥協しない職人としてのプライドが流れているのかもしれない。
石牟礼道子の話は神話のようにかたられるのだが、おもかさま(祖母)は相変わらず注目してしまう。戦時中に天皇の水俣工場へ行幸するというので、精神異常者は島へ隔離するということになり、おもかさまも巡査に連れて行かれそうなったのを、おもかさまを守れない主なら切腹するとハッタリをかましたそうだ。また父は実直な人で戦時に病の少女を連れて生きて看病した話が印象的だ。そうした貧しくても世話焼きな家系だったのだろう。
父は道子が水俣病患者の支援活動をするのに、むかしなら獄門のさらし首だぞ、その覚悟はあるのか」と言ったという。道子があると答えると「そんならよか」と言ったという。
父の死後、道子は天草へ父のルーツを探しに行くのだった。獄門のさらし首になったキリシタンの島だった。