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シン・俳句レッスン54

路上の落ち葉もいい感じに色づいていた。枯葉が聴きたくなる季節。ビル・エヴァンスが有名だけど、私はウィトン・ケリーの「枯葉」が好みだった。

カラフルさが都会の落葉をイメージする。


『奥の細道』論

テキスト、上野洋三『芭蕉の表現』から。まとめきれなかったので感想文だけ。


俳句いまむかし

『俳句いまむかし』坪内稔典。過去の名句と現代俳句の名句の読み比べ。

ほととぎす石段だけの廃校地

同じ作者に「時鳥の山にむきたる椅子二つ」もあり、すでにホトトギスは里では見られない(声の聞けない)鳥になっていた。そういえばホトトギスの声は自然の中では聞いたことがないかもしれない(ユーチューブで聞けるけど)。

軽口にまかせてなけよとほととぎす  井原西鶴

西鶴の俳諧が数を競う矢数俳諧と呼ばれ、泡のようにその句は消えたというのだが、それではあまりにも西鶴が駄目な人みたいじゃないか?俳諧から物語作家へ散文の道を極めた人でもある。

真夜中過ぎて蟻が机の上歩く  飛高隆夫

「蟻風に飛ぶかと見をり飛ばざりき」。同じ作者の蟻の句。こっちは戸外の蟻。飛んでいたら好きな句になりそうな、室内の句は真夜中が神秘的と感じるという。よくわからん。

人の目の中 蟻蟻蟻蟻蟻  富澤赤黄男

言葉遊びの世界のようだが、目の中が怖いイメージだ。ルナールは蟻を3に見立て、「333333333 333…….ああきりがない」と書いたという。8の方が似ているような。

年寄りの放課後として新茶汲む  大牧広

いまの人だけど1931年生まれだから過去の人になっていそう。

彼一語我一語新茶淹れながら  高浜虚子

虚子の句だけどいい。俳句論議をしていてそうだ。相手は碧梧桐か。坪内稔典は夫婦の会話だと読む。心が通じ合うとするのか?逆だな。

とことこと航(ゆ)く宇宙船の夜の青葉  寺井谷子

漫画的な俳句。人間性を失って欲しくないという。よくわからん。

目には青葉ほととぎすはつ松魚(がつお) 山口素堂

有名な句だけど「目に青葉」だと思っていた。「目には青葉」だと六文字で切れも悪い気がするのだけど。「には」の意味はなんだろう?「目は青葉」でもいいような。

百年の木の瘤を見て夏座敷  大木あまり

林あまりという歌人がいたな。姉妹かと思ったが違うようだ。百年の木が庭にあるなんてなんという贅沢。というか三代は続いているから旧家なんだろうな。いまの人なのに古いかもしれない。

行雲(ゆくくも)をねてゐてみるや夏座敷  志太野坂

名前がわからんかった。

こっちの句の方がいいなあ。詞書に「田舎の屋敷を想像する。

俳句とその歴史をしろう

青木亮人『教養としての俳句』から。「俳句とその歴史をしろう」。まず「教養としての俳句」というタイトルがどうなのかと思う。「俺は教養のために俳句なんぞつくっているんじゃないぜ」とも言いたくなるというものだ。

ただ著者がいう教養とは、自分を自分として形成することであり、あるべき人間としての自らを磨き、揺るぎない「私」を確立させる営為だと言っている。だから反面教師としての「教養」もありうるかもしれない。他者の意見を聞くことも大切であるかもしれない。

そして最初に星野立子の俳句が出てくる。

ハンカチを干せばすなわち秋の空  立子(昭和十五年)

俳句の良し悪しは言わないで置こう(好みの問題だから)。ただ元号は西暦何年かわかりにくい。1940年の敗戦の一句だった。その人物を紹介するときに虚子の娘と肩書がついて回るのだ。本人は立子という名前だけで立っているのにである。これはちょっと不幸なことかもしれない。そして、父の手ほどきを受けて虚子俳句のスタイルをそのまま継ぐ人のようだ。

そして虚子の一句。

スリッパを超えかねてゐる仔猫かな  虚子

これは昭和十九年の戦争末期でこの余裕か?こんなに呑気な句を詠んでいるから「第二芸術論」などと言われてしまうんだよな。虚子はそれを肯定して、まだ第二ならいいほうだと言い放ったとか。戦時に日常句を詠んでもいいとは思う。ただ虚子は戦意高揚句を率先した日本文学報国会の長なのである。それらを無視して、日常を詠んでいた句ばかり上げるのは片手間なんではあるまいか?ここには語られてない俳句の歴史があるように思う。例えば新興俳句弾圧運動とか。そういう批評精神を持たないで教養とかいうのだから笑ってしまう。

俳句が和歌から連歌、俳諧としての歴史があるのは事実だろう。しかしそれを近代俳句として和歌から独立させたのが子規なのである。なんで今さら過去に戻る必要があるのか。趣味の問題で俳諧をやるのは構わないと思うが、今更俳句を俳諧に戻すことにどんな意味があるのだろうか?

俳句の中の時間

現在の俳句界で一番影響を与えているのが松本健吉『俳句とは何か』だと思うが、松本健吉は俳句の時間は短歌の世界から時間性を抹殺したのが俳句だとして、芭蕉の句を上げる。

古池や蛙飛び込む水の音  芭蕉

水の音の瞬間がすべての一句だということだ。しかし古池という過去の池があり、それを想起する時間が水の音によって呼び覚まさす時間があるというのも一つの解釈だ。また水の音は一音とは限らずに次々と蛙が飛び込むイメージならば永遠性をイメージするかもしれない。俳句の背景なりが包括的な時間を示していると言える。

粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に  金子兜太

倒置法的俳句だが、この倒置法には時間の流れがある。山を駆けおりてきた俺という時間と、粉屋が哭く時間は別の時間軸にあるという。それが切れの効果なのか?

舟燃えてあひるぐんぐん秋となる  摂津幸彦

助詞「て」が切れ字の役割を示し別の場所の時間を提示する。

一句の終結として切れ字で置く場合がある。

雷鳴ののりうつる樹に風湧けり  保坂敏子
深山蝶飛ぶは空気燃ゆるなり   長谷川櫂
遠く近くはみぎはの僕の匂いかな 林桂

俳句の代表的な文末の切れ字は詠嘆とされる。一句全体を包括するような時間が存在するのを時間の抹殺と言ったのかもしれない。

定型詩ばかりのノート憂国忌  皆吉司
足うらは虹いろ雄花雌花踏む  豊口陽子

名詞や動詞でも同じような、一句全体を包括するような句となる。一句を上手く書き上げるポイントとして、最後の言葉は重要な意味を持つ。

モチーフとしての時間。

現在

青竹の今生の揺れまうしろに  大木あまり
海を行く揚羽ひとつはけふの裏切り  島戸奈菜

「今生」と「けふ」が今現在を伝えているが、現在以外の時間を伝える。一句目は青竹の成長過程に詠み手の不安が書き込まれ、「けふの裏切り」は「過去」や「未来」の裏切りも予測させる。

過去

初恋もカンブリア紀も遠くなる  林桂
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉   蕪村

「カンブリア紀」ではるか彼方の過去を暗示させ、蕪村の句は『保元物語』からイメージした句だと言われている。

他に神話からイメージした句は大きな過去の時間を提示する。一般的には小さな過去の時間の俳句が多いようだ。

をととひの山の日だまり冬菫  長谷川櫂
ハンカチを解くや翔びたつきのうの空  豊口陽子

豊口陽子の句は、星野立子のハンカチの句とつながっているのかもしれない。

ハンカチを干せばすなわち秋の空  立子(昭和十五年)

未来

鬼百合がしんしんとゆく明日の空  坪内稔典
未来から降りてくるのは蜘蛛の糸  大西泰世

呪術的神話性を感じる句。未来を提示すると予言性がそういう句になるのかもしれない。

玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり  中村草田男
海市立つ噴ける未来のてりかへし     加藤郁乎

近代俳人による浪漫あふれる未来は青春時代をイメージさせる。

俳句は圧倒的に現在から過去をイメージする句が多く、未来へは想像しにくいのかもしれない(近代俳句は未来が詠まれる?)

時間帯による俳句

あかときの閻魔蟋蟀髪の中  沢好摩

二日酔いか?

地下道にけぶる氷を引き出す朝  竹中宏

朝の社会生活が活動する時間。

自嘲詩人みずから口を封ぜよ朝だ  大沼正明

社会生活ではない人の朝の時間か。

高柳重信の代表的行分け句

まなこ荒れ
たちまち
朝の
終わりかな   高柳重彦

「ひる」の「ひ」は陽を想像させる。

真昼間の夏草のなか海へ行く  林桂

「まひる」の美学に取り憑かれた俳人も。

犬二匹まひるの夢殿見せあえり  安井浩司
まひるの門半開の揚羽かな    安井浩司

夜は一日の活動を終えて心落ち着ける時間だ。

仰向いて天井古し秋の暮  辻桃子
白猫を抱きあませり春の暮 鳴戸奈菜

暮れ方の時間は逢魔が時で不安を伝える。

ゆくりなく
逢魔が時の

太鼓        林桂

夜の梅机の下はも夜の海  摂津幸彦

机の下に海があるのは夜でなければならない。どことなく異界への入り口なのだ。「机の下は」「も」はなんだろう?意味があるのか?

俳句の時間で時間帯に言及してないのは昼を連想させる。時間帯を示すことで奥行きが出る。

枯葉散る逢魔が時の散歩道  宿仮

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