ぼくの短歌ノート
『ぼくの短歌ノート』穂村弘
「美のメカニズム」
「美のメカニズム」で葛原妙子の短歌を多くあげている。美というのが統合されたものなれば、それは爆弾とは反対のものなるのだが、穂村弘の場合超越的世界への憧れがあるようである。それは現世のシステムから逃(のが)れることなのだが、葛原妙子の短歌は危う感じがする。それに絡め取られていないか?穂村弘の短歌の産婆役(短歌界に引き出し役)が林あまりなので、その影響なのか。確かに林あまりのプロフィールを見ると寺山修司的な虚偽性はある。
穂村弘は「ふとむなし」に注目して、リアルな防犯のことを考えたというのだが、水原紫苑にこれはリアルさよりも「月」の光の侵入を描いているのだからファンタジー(フィクション)なのであるとし、その批評に納得する。
穂村弘『シンジケート』に、この短歌の相聞歌のような短歌がある。
「ふとむなし」という感情を「苦しき予感ふいに」に変えて鍵束を落としてしまい、そのすきに月の侵入を許したということなのか?月は穂村弘の仮想である。
暴君ネロを美しいと詠んでしまう。「異説」だから美にとって重要な要素だったというファンタジーなのだが、最近の保守的な傾向のネット世界を見ると、やはり歴史修整主義に繋がりかねない危うさがあると思う。まあ、このようなファンタジーに対抗するためにテロリストであれと詠むのかもしれないが。
そして「システムへの抵抗」でディズニーランドを受け入れてしまう。
虚構性に逃れるのはいいと思うのだ。だけどそれは寺山修司の方向性ではないのか?
葛原妙子をネット検索していたら斎藤史と同時代らしい。そのことに関係があるような。光と陰の関係。「幻視の女王」と呼ばれる。
葛原妙子の代表作。「奔馬」は三島由紀夫の作品があるという。三島由紀夫をへの幻視。その虚構性の中で「累々と子をもてりけり」という短歌なのだ。
「紋章」は寺山修司の短歌を連想させる。
葛原妙子を寺山修司と同類と見るか分かれ道だと思う。『寺山修司全歌集』の穂村弘の解説。「空には本」から数詞をとりあげ圧倒的に多い「一」は「ニ」や「五」や「八」を切り捨てるという。つまりそれは神に変わる一者なのだ。
「ドラマ化の凄み」
平凡な日常を非凡な短歌にするためにドラマチックに演出する。
比喩の一種だが、ある部分で全体を表す換喩表現の有効性。「靴」は人を表している。
例えば怒りを表すのに拳で換喩表現するとか、身体的なある部分で表現出来る感情がある。目、口、鼻のそれぞれの換喩表現を考えてみよう。
ミクロの世界
大きな世界を歌うのではなく小さな世界を歌うことで共感を得る。大げさなもの言いよりも小さな世界を愛おしむ。
世界系はもう流行らないのか?個人的な関係性(きみーぼく)。
永遠の顔
この本で笹井裕之という歌人が一番興味深かった作品。
「えーえんとくちから」が人の泣き真似かと思ったら、漢字にすると「永遠解く力」となって現れる。作者が26歳でなくなったというのも衝撃的だった。それでこのユーモア。
ひらがなの効果
ひらがなは文字に注目させるよりも音に注目させて何かを語る。
漢字の歌
現代短歌では漢字よりもひらがな表記のほうが好まれる。漢字による目による理解よりは言葉として声に出してみる、またその音による掛詞による多様な意味を生んでいく。
しかし漢字だけにする理由は、そこに明確な理由がある。
「無冠の浦和」の存在感のなさと増殖する「浦和」の不気味さ。「中浦和」って「浦和」じゃないのか?「表浦和」や「裏浦和」とか出てきそう。
繰り返しの歌
デジタルな歌
似たような短歌見たなと思ったら私の短歌だった。盗作?と思わずなるよな。どっちが?だから無印だったのかな?
でも私の短歌の方が上手くないか?まあ、先行する作品があったならしょうもない。
動植物に呼びかける歌
斎藤茂吉もよく例題で出てくる歌人だが、斎藤茂吉の鋭さよりも糞真面目な天然ボケを評価しているのだった。名人になるとそういうもんなのかな?
斎藤茂吉の歌集を持っているのだがちっとも読んでない(読めない)。今度の短歌レッスンでは招かねば、というか今日の模範短歌十首は茂吉にしよう。
我の歌
現代短歌の中のモチーフでメタフィクション短歌と私小説短歌があるという。私は前者だった。だから受けないんだ。
こういう短歌を詠めないんだよな。嘘っぽくって。私小説だから虚構でもいいわけなんだが、よくも恥ずかしげなく言えるなと。それにこの「きみ」は金井美恵子の敵じゃないか?深く語らないけど、短歌の保守性がこの二人にあるのです。
岡井隆も権力なんだよな。反岡井隆を目指しています。
時計の歌
今日の「うたの日」のお題で「柱」があったので柱時計の短歌を読んだのだが、寺山修司の先例があったのだ。
寺山イメージで作ったのだ。結句を自然描写にしたほうがいいのか?
こういう奇抜な短歌が好きだ。まだ早いけど。
間違いのある歌
鎌倉の大仏様に石碑がある与謝野晶子の短歌だが、これにケチを付けたのが川端康成。
川端康成『山の音』(これも成瀬巳喜男監督で映画化されました)で「大仏は釈迦じゃないんだよ。実は阿弥陀さんなんだ。まちがいだから、歌も直したいが、釈迦牟尼で通っている歌で、いまさら阿弥陀はとかいうのでは、調子が悪いし、仏という字が重なる。しかし、こうして歌碑になると、やはりまちがいだな」と云わせている。やはり川端康成は意地悪な奴だった。
それで改作したのだ。
穂村弘も書いているが、改作前のほうが勢いがある。与謝野晶子はよくいちゃもんつけらるのだが、それは女がでしゃばりすぎてという保守層からなんだと思う。後年はそれで保守化して戦争協力していく。
権威的な構造は、そういう所にあるのだ。『君死にたもうなかれ』と詠った歌人が後には兵隊を送ることの讃歌を詠うようになる。
関連書籍:穂村弘『短歌という爆弾』
穂村弘『シンジケート』
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