シン・短歌レッスン27
裏庭の梅。紅梅と白梅があるのだがよくわからないな。昼間はほとんど写らないから夜間にフラッシュ撮影してみた。でもいい感じか星のようだな。
今朝の一句出来なかった。
葛原妙子短歌
葛原妙子に「幻視の女王」とキャッチコピーを付けた塚本邦雄だが、これまで述べられてきたように塚本の理念としての前衛短歌と塚原妙子の身体的幻想短歌は随分違うのだ。
葛原妙子の場合戦時や戦後の自身の身体の記憶から発する理念よりは直感的な実存感であり、それは塚本邦雄の葛原妙子批判は批評性の不徹底を「魔女不在」としたのだが、中井英夫は『飛行』から『原牛』への葛原妙子の飛躍によって「魔女認定」したのだった(中井英夫『黒衣の短歌史』)。
葛原妙子は、現実の中から虚構を見出し、塚本邦雄が虚構の世界を現実世界に知らししめる歌作りとは逆の方向性だという。それは近代短歌の自我を自然の中に切り開いて行った斎藤茂吉を目指しながら自我が分裂せざる得ない社会(戦時や戦後の女性性という身体を抱えて)に於いて女王だったり魔女だったり母親だったり巫女だったりする相貌なのだ。
他界とはそういう虚構性だがその場所から現実世界の我への眺めという不安定な世界という分裂的な様相を帯びてくるのだった。
模範十首
山田航『桜前線開架宣言』より「中澤系」。短歌を滅びの文学として(釋迢空系譜)、そこに言霊として木霊する場所がネットだったとか(@nakazawakei_bot)。短歌は、夭折系が多いのは短い命の中で詠めるからだろうか。長編小説を書こうとすると無理がある。中城ふみ子、笹井宏之、中沢系が三大短歌夭折系かな?
「ぼくたちは」のリフレイン短歌。これが中澤系最後の短歌だという。作者の意図を超えてしまっているな。それさえも意図的ならば、この短歌にどうたちうちできるのだろうか?
「終わりなき日常」は宮台真司の受け売りだろうが、終わった後の短歌をどう解釈するかだな。
映画短歌
『母の聖戦』
そのままだった。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?