シン・俳句レッスン51
月の歌は炭坑節しか思い出せない。月のワルツがあったか。フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンとか。でも歌えるのは「炭坑節」だった。全部歌えるわけではないが。月の流行歌ってないものかな。ジャズではムーンレイが好きだった。
少の頃の記憶というのは恐ろしいな。ボケ老人になったら突然こういう歌を歌いだすんだろうな。
短歌とか俳句とかは月の歌は多いのに思い浮かばないのは何故だろう。星の歌は沢山あるんだよな。逆に和歌では星は詠まれなかったという。何か相関関係があるのかな。
世間との距離
テキスト、上野洋三『芭蕉の表現』から。
正秀亭初会興行の時
「月しろ」は月が出始める夜空が白んだ状態。芭蕉の発句はこれから始まる興行を待つ人々の緊張感を伝えているのだが、それだけでは読みが浅いという。昼から夜にうつろう「月しろ」の時間というのが、人々が手仕事を終えてそしてその手を膝に置くのである。宵の宿に集まった連中はそういう人々に対しての挨拶句なのである。月は芭蕉かな?
正秀の付句は月が出ようとしているのに行燈はないだろうということだった。まあ、それほど緊張した趣なのかもしれない。
此(この)の指示が師走の市に行く詠み手にかかるのか、下の句の鴉にかかるのか。問題は「何に」という目的で、風狂の人ならば師走なんかに市に行くのは鴉ぐらいなものだろう。しかし鴉が目的もあるのものでもなく何という疑問を投げかけるのだった。鴉は詠みてと重なっていくのであるし、その目的は相変わらずわからないものであるが、上句の「何に此」が投げかける言葉が鴉となって飛んでゆくのである。この用法は『源氏物語』の末摘花との成り行きを詠んだ歌にあるという。
「心惹かれる花でもないのに、何でこの赤い鼻をした末摘花を相手にしたのやら」という意味だという。
芭蕉の時代には「隣」は気心の知れた隣人がいる住処だったのだと。だから隣が何かをするのは想像できたという。敷居も壁も薄いということよりも隣に気心が知れた隣人がいないととても住めないということだったという。それでもそう漠然と問い掛けてしまう秋の暮れなのだ。
今は隣に誰がすんでいるのかわからないので、この句の意味も変化しているのだ。その隣が誰だか分からず自分も誰だか分からないように息を潜めて暮らしている。隣とは溝の深い境界があるというのは現在の方が深く感じる。
俳句いまむかし
『俳句いまむかし』坪内稔典。坪内稔典が編集する俳句の『古今集』ということか?過去の名句と現代俳句の名句の読み比べ。
春
季語は「春の雷」「春雷」とも言い、それをネットショッピングアマゾンにかけた句だという。
春雷は遠くで鳴っていていつまでも遊んでいるようだという句。夏の雷はすぐ落ちてくるのに、「地に降りず」というそういうことらしい。言われないとわからないな。アマゾンの方がわかりやすい。
今はフキノトウも珍しくなっているのでは。まず普段は食べないよな。通りを隔てた畑に出るのだが、眺めるだけだった。すでに高級食材となっているのかも。季節ものを味わうのも贅沢になってしまった。
何のひねりもないような。「嵐」が「ふき」と縁語ということだった。「にがにがしい」も。ただ「ふきのたう」がいい感じだった。漢字よりひらがなの方が味わい深い気がする。「ふきのとう」というフォークグループもあった。
「死も新聞に畳まるる」死亡記事も新聞にたたまれる無常観をだしているのか。
「ありく」は方言だろうか?なんかいい。
「唐津」は焼き物。「陽炎」が春の季語。ゆらゆら揺れている見える春の暖かな日差しか。名前に反して、古びた句だった。
陽炎は「かげろふ」だった。かげろうで「陽炎」と読むのだな。「ようえん」かと思っていた。「愛の陽炎」という歌もあった。芭蕉の句は一二寸が具体的でいいのだそうだ。また歌を聞きたくなってくる。
遊んでいるからちっとも進まない。
「うすらひ」は使ってみたい季語だな。
これも「うすらひ」と読ますのか?これは面白いな。別に死んだわけではないけど氷の中に閉じ込められている金魚の絵。
口語+季語。ただそれだけのような気もする。「いぬふぐり」と言いたかっただけかと。
「親しくて好きで」が決めゼリフみたいでいろいろ詠める気がする。こういうのは季語が動くというのはないのかな。ただ「はこべら 犬ふぐり」ということで特徴があるということか?
葦の芽は「葦の角」と季語で呼ばれるという。硬い角のように見えるイメージで、俳人からは好まれる季語だという。
子規がまだ歩き回れるときに詠んだ春の喜びの句。そう思うと切ない。
「ぺんぺん草」も言わなくなったな。「薺(なずな)」とか難しい漢字を使うよりこっちのほうが面白い。
芭蕉の句より蕪村の「妹(いも)が垣根さみせん草の花咲きぬ」の方がいい。芭蕉の句に和したというのだが。
今の句だと言うが古いような気がする。
蛙合戦というものを見てみたい。
現実と絵画の二物衝突。上手いかな。でもそれ以上の意味がないというかダリの時計に負けている。
これもたたの句だった。何ていうだっけ。ただごと俳句。
ただごと俳句ではないのは下句を「みづ」としたことか。「春の水」は雪解け水の季語。ただ内容的にはただとご俳句なのか。春の祝福するイメージはあるか。
春の水所々に見ゆるかな 上島鬼貫
「春の水」の本意は、雪解け水で推量が豊かな水なのだという。河原の池や沼にところどころ春の水の水溜りが出来る様だという。なるほど。
俳句の文体
夏石番矢『超早わかり現代俳句マニュアル』から。俳句には口語文体と文語文体があるが俳句は文語体のほうが多い気がする。
このリズムはいいな。こういう風に書いてみたい。自由律みたいだな。季語もないし。
意味不明だな。モグラかな?啓蟄の情景だろうか?意味不明。ただその謎を詠んだだけなのか?
これも意味不明。
文語だけど意味はつかみやすい。私語厳禁ということだろう。
これは好きかもしれない。握り飯が祝福している印象を受ける。
これも面白いかも。何かありそうだと思ったら何もない坂道という。春の坂だから何かあるだろう。
一人の作家が文語と口語を使っている場合があるという。未熟なだけなんじゃないか?文語を使いたいけど安全パイにするとか。私だった。
後の句は意味がわからん。上野千鶴子の俳句仲間だった。確か俳句の上手い人と討論していつも負かされていたとか言っていたような。
中塚一碧楼は自由律の鬼才ということだった。
様々な「か」の用法。
モノローグとして読者に差し出されている疑問形。自問自答する感じか。
断定気味のある推測に詠嘆が加わってくる。
疑問の詠嘆だが、反語の意味を含む。
「命令形」によるヴァリエーション。
作者の自問自答でもあり読者への命令にもなっている。
詠み手の強い願望を表している命令形。
古典俳句でも松尾芭蕉は命令形が多いという。また芭蕉の命令形は句の途中に置かれて緊張感を保っている。
切れ字の用法。
友の瞳(め)に友映りゐて二階かな 摂津幸彦
夜の梅山は小さくなりにけり 鎌倉佐弓
俳句の切れ字には一句をしめくくるものがある。「かな」「けり」「ぞ」「なり」「たり」など最後で切れるもの。詠嘆や断定調か?古典的な切れ字が特異な感覚を呼び起こす。
古典語の切れ字ではなく、現代語で切れを表現した句。比較的新しい切れ字だという。散文的だな。
初句切れ。倒置法的に。「や」は倒置より宙吊り感にする。古典的切れ字には古臭さが感じられ新しい切れ字が求められる。「か」とか。
基本的に俳句は一行書きである。
分かち書きは、それぞれの語を独立させて読者の目に視覚的に入ってくる。空間的、立体的な表記とも言える。
一風変わった表記が言語遊戯的な試みとして用いられる表記。上の句は大阪弁。方言は有効である。
どもった口調が詩的言語として用いられている例。
ポルノ映画のタイトル的な表現。その他週刊誌・標語など日常目にすることばをパロディ的に使用する例。
昭和初期の教育勅語を用いた例。
二句一組で逆さ言葉を言語遊戯的に用いた例。
言語遊戯の第一人者は加藤郁乎だという。
俳句の文体の将来は、いつまでも古典用語に依りかからず、現代語で表現することが求められている。言語遊戯的な俳句を含めてあらゆる文体の可能性を探っていくべきである。