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短歌界には金井美恵子はいないのか?

『短歌・俳句の社会学』大野道夫

歌人にして社会学者による短歌・俳句の分析。五・七・五+七・七の世界を社会学が分析する。
目次
1部 短歌・俳句論(短歌・俳句比較研究ノート;戦争を短歌・俳句はどのように詠めるのか―戦後の朝日歌壇・俳壇を対象として;短歌・俳句をよむ若者とは?―千四百人の高校生調査から;短歌・俳句・コピー ほか)

2部 短歌論(代表作とは何か―選ぶ主体・根拠・特性という論点;短歌とイデオロギー―フェミニズムを例にして;格闘技をうたう歌;時評(二〇〇〇‐二〇〇七年) ほか)

出版社情報

「社会学」がイデオロギーなので、短歌のような文化の領域とは相反するという保守的な指摘もあろうが、この本ではその歩み寄りを目指している。それは、イデオロギーは「人間・社会・自然についての一貫性と論理性を持った表象と主張の体系」を言うことは、短歌の文化と相反することでもない。ただそこに個人的な趣味(好き嫌いの感情)があり、例えば河野裕子がフェミニズムからなされる批評に対して「イズムのために、短歌を作っていない」というときもそこに隠れたイズムがあるのも事実である。そのことが新保守主義を蔓延させている社会なのだ。

第一部は、統計やらデータを見ながら短歌の社会学であまり興味をひかかなった。社会学という題名にある通りの社会学の本だなというイメージ。
むしろ第二部の短歌論の方は興味深い内容をを含んでいる。

フェミニズムと短歌

女歌の定義があり、折口信夫が「ロマンチックでセンチメンタルな艶やかな感情発露」とあり、与謝野晶子の短歌をイメージしたのだが、小野小町という紀貫之の言葉もあった。要するに橋本治が喝破したように、中世の女官文学の和歌は当時の女性の感情を歌ったものだというのが当てはまるような。

80年代のフェミニズム批評に「母性主義と女性性を批判する」言論が出てくる。そのやり玉に上げられたのが河野裕子の短歌だ。

しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす幸せ  河野裕子

河野裕子は、イズムのために短歌を作っているのではないとその批判をかわしたが、そういう背景にあるものにも目を向けるべきではないのか?そういえば、当時のCMで『僕食べる人、君つくる人」というカレーのCMが批判を浴びて問題になったのもこの時期だったかもしれない。今はさすがにこのようなCMが流れることはないが、短歌の世界ではわりとこういう歌が出てくるような気がする。そのあたりに短歌の保守的な流れを感じはしないだろうか?

そして、河野裕子はイデオロギー読みやイズム読みは歌をやせさせてしまうという。これこそ河野裕子の保守的イデオロギーなのだが気づいていないのか?気づかないふりをしているのか、そういう河野裕子の戦略が短歌界に蔓延した結果が今の現状なのだと思う。

新保守主義と短歌

例えば戦後は天皇制と短歌という問題は意識されていたと思うのだがそういうイデオロギーは良くないということで不問になされて、天皇主催の「歌会始」なんか参加してしまう。短歌がそのような伝統からあるのは事実なのだが、そのれが前の戦争によってナショナリズムに結び付けられた行ったことも事実なのだ。そこを有耶無耶にしてしまうともう一度その道を辿ることもあり得ると思うのだ。与謝野晶子の変貌とか、河野裕子のおめでたさとか、そういうのは短歌の内部からは出て来ないのだろう。河野裕子への批判と言えば金井美恵子のものが有名だけど。

君が代法制化に6割の歌人が賛成したのに天皇主催の歌会始に出るというのはなんなんだろう?川野里子かな。


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