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母なる言葉を求めて

『偽詩人の世にも奇妙な栄光』四元康祐

吉本昭洋は中学2年の時、詩に出会った。教科書に載っていた中原中也の詩だった。以来彼は、詩を愛するようになり、生活の大半を詩に捧げるようになった。しかし、彼は詩を作らなかった。いや、作れなかったのだ。詩を愛しながら、詩作の才能の欠如を自覚した彼は、大学卒業後、商社に入社し、ビジネスマンとして世界各国を渡り歩く生活を送ることになった。しかしその後、出張先のニカラグアで、ある衝撃的な事件に遭遇する……。

ジョン・キーツ『詩人の手紙』の引用から。

詩人というものはこの世に存在するものの中で非詩的なものだ、というのは詩人は個体性をもたないからだ───詩人は絶えず他の存在の中に入って、それを充たしているのだ───太陽、月、海、それに衝動の動物である男や女は詩的であり、不変の特質を身につけている───詩人にはそれが何もない、個体性がないのだ。

言葉が親の口真似から覚えるように詩人も誰かの模倣から入るという自己模倣という表現は、キーツ『詩人の手紙』にあるようにあたかも固性があるように振る舞うが、それは代々受け継いだ他者の言葉の応答であるように、一概に剽窃とは言えないのではないか?

言葉が他者の言葉である以上に詩人はそれを利用するのであり、漱石の則天去私はそうした固有性というものを持たない日本の思想だった(「あいまいなる日本の私」)。それは日本の和歌の本歌取りの思想や俳句の無私なる自然の写生ということに繋がっていると思う。落語も騙りの文化なら、このポエトリーリーディングは純粋な芸なのではと思う。そうか芸術というより芸能なのかもしれない。

だからこそ西欧の詩のように自我を持つべきという近代詩はまた『海潮音』や堀口大學の翻訳詩が影響を与えた。

剽窃を暴き出し過去の文学にも言及するとき、それは剽窃と言えるのだろうか?例えば『ドン・キホーテ』が過去の騎士道物語をパロディ化しそれは剽窃とは言わずに文学になるのだ。そうしたメタフィクション性の文学は多い。

例えば翻訳者の仕事も文学であるという最近の傾向もAI翻訳との違いや聞き書き文学はそれこそ他者の言葉のメディアとなって伝えるものである。その影響によって村上春樹がエンタメ文学となり、また各国にも伝わっていったものだった(村上春樹はアメリカ文学を剽窃しているのか?)また最近の文学では語り直しの、例えば『源氏物語』や戦記物文学。哲学はどうなんだとか。

現代思想なんてほとんど西欧の思想をわかりやすく語り直したものだろうと思ってしまったり、批評はそれ自体で作品をわかりやすく分析したものだ。それはそもそも誰の言葉かというと母なる言葉ということなのかもしれない。「大文字の詩」というその根源性を問うとき言葉の模倣から始まったのが詩人であり偽詩人であるのかもしれない。

近作『詩探しの旅』では著者が谷川俊太郎の名代となって、そうしたフェスティバルに参加したことが語られるエッセイだった。それは世界の言葉とコミュニケーションしていくことでメディア(情報)となり伝えることなんだと思う。詩をエイリアンとする詩も面白かった(「シン・現代詩レッスン」で模倣させてもらったがこのままでは剽窃か?)。



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