父親の物語を語る私小説
『ネット右翼になった父 』鈴木大介(講談社現代新書)
志賀直哉『和解』のような私小説を読んでいる気分になった。個人的な家族関係の物語にどうのこうの言うのは野暮だと思うが、論理的に書いているようで論理的ではない。何故なら、「ネット右翼になった父」というエッセイを書いた後に姉や母から責められて、父親像を回復せねばならなかったらだ。ここに家族の心情が入り込んでいるのである。それは悪いことではないが、論理的な本でもなかった。私小説だな。
父のネット右翼的言動を受け入れられなかった著者が父の死後に父との関係性を修復しようとする試みみたいな本かな。それは個人の問題では大切だとは思うのだが、これは文学のような。それも保守系の。結局反抗息子が父との親子愛を築けなかったという家族神話(感動本)になっているのだと思う。こういう傾向がますます日本を保守化に導いているような。
年取ると保守化していくのはよくわかるのは、頑固になるということなんだよな。世代間ギャップとか。ただそれは誰にもあるものなんだが、すべてが大衆になびけばいいというもんでもない。得に今、日本は保守化にあるのを気づかないとまた戦時中のようになってしまう。その第一なるものが家父長制だと思うんだよな。
ここでの母も姉もその家父長制の中にいて父親の気持ちを汲み取り父を変えようとしなかった。姉の反抗も変えたのは自分の方だった。母に至っては相互依存的な家父長制度の番人とも言えるかもしれない。母の愛とか言ってしまうのはロマン主義なのだ。
なんだろう、このイライラした気持ちは。それは著者があたかも当然と思われる「自己診断プログラム」という方法がその問いの立て方が今の日本社会を肯定した上で日本社会に合わせるために適用するプログラムだと思えるからだ。精神分析の問題なのだが、判断する医者がそのシステムの中にいて正しい判断が出来るのかということである。
つまり何故この自己診断プログラムが問題となるのかと言うとそれはアメリカ型の資本主義を目指しているからなのだと思う。経済第一なのだ。まあ作家というものがそのような経済活動の一環としてあるならば、そうなのだろうけど、だからと言って今の保守主義的状況を肯定してくない。
父親像と父は別の判断でしないと間違うと思う。例えば安倍首相なりトランプの父親が子供に取っていい父親であっても国にとってはいいトップとは言えないだろう。それは別問題。
とくにこういう家族主義に収斂されてしまうこと自体、「美しい国日本」というシステムの中の物語(フィクション)であるのだ。