見出し画像

新世紀『魔の山』のハンスは碇シンジか?

『トーマス・マン『魔の山』 5月』小黒康正 (NHKテキスト)

「世界最高峰の大作」登頂に挑む

20世紀ドイツ文学の最高傑作『魔の山』。作家トーマス・マンをノーベル文学賞に導いたとも言われる本作には、「生と死」「啓蒙とエロス」「秩序と混沌」「合理と非合理」がうずまく現実を前に、無垢な青年ハンス・カストロプが葛藤する姿が描かれている。「魔の山」とはいったい何を象徴しているのか。価値観が混沌とする世界で、人はどのように生きていけばいいのか。長大かつ難解な書として有名な世界文学を、余すところなく読み解く!


第1回「魔の山」とは何か

最初に「魔の山」特有の時間論が出てくるのだが、これを読もうとしている人は膨大な時間が必要だということだ。読書が片手間で読めるなどと思っている人には勧められない。読書は登山なのである。ハイキングコースのように登れる山もあるのだろうが山小屋に何泊もしなければならない高い山もある。そうした中で「世界文学」というアルピニスト(読書家)が目指す本がある。実際にその長さが途方もないものや(『源氏物語』)、切り立つ絶壁が手強いもの(ドストエフスキーの思索小説か)、あるいは迷宮の森を彷徨うもの(カフカ『城』のようにいつまでも麓のままだ)、そんな中にあって『魔の山』は饒舌体の思索小説だろうか?最初から時間論で煙に巻く。

例えば毎日のルーティーンに組み込まれた日常的な時間がある。それはほとんど時間として意識することなく流れていく時間(時刻)だったりする。日付を与えられ曜日で区切られ、時間までに処理しなければならない生活があるのだ。それを外界(麓)の時間だとすると山の時間は読書の時間と同じなのかもしれない。目前に広がる圧倒的な自然とその自然から隔離された国際結核療養所「ベルクホーフ」。そこに収容されるのは病者なのだった。

彼らは本来ならば時間がないものである。結核という病のために限られた生きる時間しかないからだ。しかし、この「魔の山」(ベルクホーフ)には終末者の慰安するすべてが揃っているという施設だった。ここを従兄弟のヨーアヒムを見舞うために訪れるハンスは、夏休みという就職期間(ドイツはそういうことなのか?)を利用しての訪問であった。ハンスに取っては猶予期間(モラトリアム)であり、この小説が成長物語(ビルドゥングスロマン=教養小説)とみなされているのである。

それだけの猶予期間が必要なのは登場人物達の議論(対話)による思想の探索である一方で、ハンスにとってはロマンス(恋物語)もあるからだった。ただここで描かれるラブ・ストーリーはデカダンとして退廃した19世紀世紀末気分(死の戯れ)として描かれているのである。その中に放り込まれるハンスは宗教的な求道者の側面も持っていた。だからいつまでもここに留まれたのだろうか?

最初の時間論だが本を読む時間に似ているという。その物語の一時間を理解するのに時間通りというのはあり得ない。また一気に読めず長い中断があるかもしれない。わたしも一ヶ月かかりながら七章で立ち止まってしまった。この100分で言うところの第四回直前だった。そこから一気に山を下っていきたいのに躊躇うものがあるのかもしれない。

そうだ。「魔の山」は「魔の時間」でもある小説なのだ。

第2回二つの極のはざまで

『魔の山』が最初に構想されたのは第一次世界大戦前でトーマス・マンは一人の青年が愛欲に負けて命を落とすというタンホイザー伝説に基づいたロマンスを考えていたようだ。

それがクラウディア・ショーシャ(夫人)との恋物語で、死の隣にあるサナトリウムでのデカダンス(退廃的)な物語である。それはもともと病者ではなかったハンスが魔の山の気分に浸り続けたことから病(恋)の熱に感染していく。それを「オデッセウス」の冥界巡りに例えるのが文士セテムブリーニであり、彼が教育者という立場でクラウディアと対極になるのであった。ただ最初の段階ではセテムブリーニは理屈屋というように揶揄される教師像であり、ハンスは反抗的に愛欲に染まっていくのだった。

クラウディアとの情事を完遂したことで、死の病に感染し恋の熱と病の熱の区別を無くすのある。魔の山に囚われていく青年の恋の悲喜劇である最初の目論見は完成したのだが、第一次世界大戦後のドイツの生き方が新たなテーマとして問題化されていくのだ。それがトーマス・マンの分身というべき存在の人物のナフタの登場。それは第3回である。

第3回死への共感

トーマス・マンの分身というようなナフタの登場で物語は錯綜してくる。ここからセテムブリーニ(トーマス・マンの兄であるハインリッヒがモデルだという)との議論が白熱していく。ほとんどこの部分は哲学・思索小説という奥深さなのかもしれない。ドストエフスキーの神の問題というような。それはヨーロッパがキリスト教世界の影響下にあり、ナフタのイエズス会士は、ほとんど原始キリスト教的な理念の世界なのである。それは死の優位性というものだろうか?キリスト教世界の神の世界の具現のために人間の生死があるというような、ここはなかなか理解しがたい。ただハンスと従兄弟ヨーアヒムの分岐点が死を介しての分岐点だった。ヨーアヒムは精神的理念を求めて軍隊の厳しい生活の中に自己を償却していく。それがトーマス・マンが惹かれゆく軍人国家の精神性でなかったのか?

それに対するコスモポリタンのセテムブリーニの思想は生の謳歌と言えるのかもしれない。ただセテムブリーニの中にフリーメーソン的神秘主義もあるのだった。この時代のヨーロッパを覆っていた精神主義のような気がする。それはほとんどナフタとの同根にあるキリスト教的世界観なのだ。二人の議論、戦争論・国家論・人生論はほとんど哲学的議論なのである。

そして外界で軍隊生活を送っていた理想の兵士と成れなかったヨーアヒムが病に犯されて死んでいく。そのときの死の観念は崩れていくのは、母親の存在ではなかったのか?他者としての母親の悲しみは言い尽くせぬ悲嘆をハンスにもたらすのであった。そこから雪山での無謀とも言えるスキー(死の世界への意識付けとそこからの脱出)で見た世界の調和。それが生の哲学としてヨーアヒムの分まで生きるということになるのだと思うがこの過程が難解だった(飛躍と言ってもいい)。

第4回生への奉仕へ

そのモデルとなるのが新たに登場するペーペルコルンというコーヒー王のオランダ人なのだが、彼の生の謳歌がハンスに与える影響が生の哲学として意識付けられるのではないのか?ただ彼の思想は植民地主義者の欲望の資本主義と言えるかもしれない。その謳歌は果たしてあらたな錬金術なのか?そこにマンの神秘主義的なキリスト教観念の精神史があるように思う。ひとつのデカダンを突き詰めていくという神秘主義はブランショとかバタイユに繋がっていくような思想のようにも思える。その内的体験(神秘主義)を脱構築させていくキリスト教ならば、ほとんどエヴァンゲリオンの世界かもしれないと思う。ハンスはヨハネを暗示させるということだった。「ヨハネの黙示録」の影響を受けた「ハンスの黙示録」という本だろうか?





この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?