四元康祐(翻訳)ディキンソン「生について」
『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』からディキンソン「生について」。ディキンソンの詩は、哲学的な問いのようなものが多いいのだが、むしろそれは巫女的な宗教感覚なのかもしれない。しかしその聖性は戒律とか厳密にある宗教ではなくアニミニズム(多神教)に近いものだったのではないか?今日日記を書いていて思ったのだが芭蕉とディキンソンは近いのかもと思った。
ディキンソンは引き籠もり詩人であったけど、心は旅人(船乗りか?)だったのである。そして四季折々の変化を歌う。
もう蕉風詩人だよな。それは写生ということではなく目に見えない匂いや風を感じることだ。
それはカトリック的な縛りではなく、「額につなぐ汗のロザリオ」と言っている。それは喩えなんだが、宗教的なものをここからも感じるが、一神教的なものではなくアニミズム(多神教)なのだ。
もうわかりすぎるぐらいわかるな。これが過去のことではなく現代も続いているのだと。ある意味キリスト教的な詩ではあるのだ。しかし、それは教会に閉じ込められたキリストではなかった。蕉風キリストなのだ。そこにディキンソンの笑いがある。狂ってしまったのか?むしろ俳諧の諧謔性だと思う。狂ってしまわないための詩なのだ。
途中で切れないような詩が続く。ディキンソンの溢れ出る感情の言葉なのだろう。「豪華絢爛たる不幸というもの」という不幸自慢かよと思ってしまうが、諧謔性なのだ。不幸を豪華絢爛なものに変えるしかないディキンソンの詩の力。その贖う姿こそ光が照らしていくのだろう。
冬の長い影は俳句だよな。そこに耳を澄ます詩人がいる。