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シン・現代詩レッスン128

四元康祐(翻訳)ディキンソン「生について」

『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』からディキンソン「生について」。ディキンソンの詩は、哲学的な問いのようなものが多いいのだが、むしろそれは巫女的な宗教感覚なのかもしれない。しかしその聖性は戒律とか厳密にある宗教ではなくアニミニズム(多神教)に近いものだったのではないか?今日日記を書いていて思ったのだが芭蕉とディキンソンは近いのかもと思った。

生について

内陸の魂が、
家々をあとに、岬をあとに、
海へ、深い永遠のなかへ入ってゆく───
痛みにも似た鋭いう歓び

船乗りどもは知るべくもない
山で育ったおれたちが
沖に向けて最初の一里を漕ぎ出すときの
あの気高い陶酔を

ディキンソン「生について」

ディキンソンは引き籠もり詩人であったけど、心は旅人(船乗りか?)だったのである。そして四季折々の変化を歌う。

詩人が歌う秋のとなりに
散文の日々が書きつけられている
雪のこちら側に少しと
霧の向こう側にも

ディキンソン「生について」

もう蕉風詩人だよな。それは写生ということではなく目に見えない匂いや風を感じることだ。

目がどんより曇って…….死がやってくる
ありふれた痛みの糸が
額につなぐ汗のロザリオを
人はただ授かるだけだ

ディキンソン「生について」

それはカトリック的な縛りではなく、「額につなぐ汗のロザリオ」と言っている。それは喩えなんだが、宗教的なものをここからも感じるが、一神教的なものではなくアニミズム(多神教)なのだ。

世間はおれを散文に閉じ込めようとする
ちょうど子供の頃
おれを黙らせようとして
押し入れのなかに閉じこめたみたいに

奴らがおれの頭をかぱっと開いて
なかを覗いてみたなら、分かるだろうに
それが鳥を大逆罪に訴えて
柵のなかへ放りこむような間抜けな真似だって

鳥はあっけなく束縛から羽ばたいて
星のごとく舞い上がり
空で笑う、さてそれこどが
このおれの うた

ディキンソン「生について」

もうわかりすぎるぐらいわかるな。これが過去のことではなく現代も続いているのだと。ある意味キリスト教的な詩ではあるのだ。しかし、それは教会に閉じ込められたキリストではなかった。蕉風キリストなのだ。そこにディキンソンの笑いがある。狂ってしまったのか?むしろ俳諧の諧謔性だと思う。狂ってしまわないための詩なのだ。

わたしたちは天から痛みを受け取る
傷は見えないが
内側には意味が溢れ
変化が生じてしまっている

誰にもそれは語れない
語れないけど それこそが
絶望の徴 どこからともなく降り注ぐ
豪華絢爛たる不幸というもの

光が特別な角度に傾くとき
風景は耳を澄まし影たちは息を呑む
消えてなお それは距離そのものとして
死の顔の上に留まる

ディキンソン「生について」

途中で切れないような詩が続く。ディキンソンの溢れ出る感情の言葉なのだろう。「豪華絢爛たる不幸というもの」という不幸自慢かよと思ってしまうが、諧謔性なのだ。不幸を豪華絢爛なものに変えるしかないディキンソンの詩の力。その贖う姿こそ光が照らしていくのだろう。

芝生の上を這ってゆく長い影は
陽の沈むしるし

草の葉たちは震えている
近づいてくる暗闇の足音に

ディキンソン「生について」

冬の長い影は俳句だよな。そこに耳を澄ます詩人がいる。

蕉風ディキンソン『地獄篇』

船長は芭蕉だった
案内役はディキンソン
さあ、航海が始まるぞ
それはワンダー・ランド
それはイリュージョン!

信天翁も乗り込んで
乾杯、乾杯、詩の祭典だ
酔いどれ詩人の大逆罪
島流しの刑なら得意者
先におはすのは羽ばたけなかった
後鳥羽院かいな、李白さんも誘って
ダンテの地獄めぐりかな

今日の 案内役 ベアトリーチェ
エミリー・ディキンソン

やどかりの詩


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