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植物神の凡例と考察。読むのは大変だけど面白い。

『初版 金枝篇〈上〉 』ジェイムズ・ジョージ フレイザー , 吉川 信 (翻訳)(ちくま学芸文庫)

「肘掛椅子の人類学」と断じ去るのは早計だ。ただならぬ博引旁証に怖じる必要もない。典型的な「世紀の書」、「本から出来上がった本」として、あるいはD・H・ロレンス、コンラッド、そして『地獄の黙示録』に霊感を与えた書物として本書を再読することには、今なお充分なアクチュアリティがあろう。ここには、呪術・タブー・供犠・穀霊・植物神・神聖王・王殺し・スケープゴートといった、人類学の基本的な概念に関する世界中の事例が満載されているだけでなく、資料の操作にまつわるバイアスをも含めて、ヨーロッパ人の世界解釈が明瞭に看取できるのだから。巧みなプロットを隠し持った長大な物語の森に、ようこそ。


樹木崇拝

金枝とはの宿り木(やどりぎ)のことで、この書を書いた発端が、イタリアのネーミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。日本の天皇=神についても出ているが大国主や武将(御上様)を天皇と一緒にするなど誤った解説も見受けられる。

それだから駄目だというレビューを読んだがそういうことではない。一神教の神に対しての宿り木の神なのだ。接ぎ木される神の思想は、日本でも例えば古事記で描かれる日本神話の神に民間信仰の神が重ね合わせて、多神教であるはずの神道が皇室神道に置き換わる。それは西欧の一神教を接ぎ木した概念であって、明治の文明開化によってもたらされてきた帝国主義的な一神教を作り上げた国家主義である。

柳田国男の民俗学では、日本には様々な民間信仰が神様として多神教の神道としてあったのだと考えると日本の神のわかりにくさもあると思う。鳥によって遠くへ運ばれる多様性。そのヴァリエーションを見るのが、この本の狙いなのである。

民間信仰の神々は、詩人や古典画家(「金枝」はターナーの絵画であるという。)らにインスピレーションを与え続けてきたのだ。『地獄の黙示録』や様々な日本のアニメやホラー映画。例えば話題の北欧映画『ミッドサマー』も植物祭による王の入れ替わりと死の儀式によって、夏至を祝うというものだろう。学術書というより文芸書として楽しみたい。

もっともレヴィ=ストロースはフレイザーの机上の講義が退屈すぎて、フィールドワークに向かったという。確かによくわからない民族のあれこれの例を上げられても読むのは大変だ。自分が特別にその地域に興味があればいいのだが。ただヨーロッパは森の文化として、キリスト教以前にはそうした植物神が多かったようである。アジアもそうなんだけど。

最初の概論部分を読んでそれぞれの凡例は飛ばし読みしてもいいと思う。ちょっと、その罠にハマってしまったのに後悔している。要は、自然界の植物の入れ替わりのように、春や夏が来れば新しい芽が古い者を凌駕する。それが王の入れ替わりとして、儀式的に行われたのが夏至祭のような植物祭である。

アドニス、アッティス、オシリス、ディオニュソス、リテュエルセスなどはそのヨーロッパ、ギリシア神話の代表例として個別に述べられいる。

世界各国の風習や供犠は迷信によるものだが、その民族にすれば自然学から来る教義(秘儀)だった。それが様々な原始宗教を形作っていった。それは各地で同時的に多様性に行われてきたアミニズムの世界として、例えば日本では中沢新一らが注目していることなのだろう。正月の門松も榊によるお祓いも樹木崇拝によるアニミズムから来ている。ユングの「集合的無意識」にも繋がっていく。

かつて多くの研究者や文芸者が憧れた。日本で最も有名なのは柳田国男(1144夜)だったろう。T・S・エリオットもその一人だった。柳田は『金枝篇』から日本民俗学をおこし、エリオットは『荒地』詩集シリーズを構想した。

フレイザーが見せた目眩く想像的編集とは、それを一言でいえば「観念連合」というものだ。古代人の観念のなかに入りこんで、そのままその観念に感染し、次々に推理の翼をもって時空に舞い上がる。そして降りてくる。また舞い上がる。ときには地下深くに潜行する。そしてまた息を吹き返す。そのつど、バラバラな現象が観念の力によってくっついていく。まさに観念連合技法というものだ。もうちょっとべつの言葉でいえば「類感」だ。「類が類を呼ぶ」という方法だ。(松岡正剛『千夜千冊』)


上巻も途中でお腹いっぱいで、下巻は読まなくていいかな。


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