望月の欠けたるところ馬鹿唱和
一昨日の写真だけど一番星が出ていた。金星なのか。惑星と恒星の見分け方がよくわからん。都市部では見られる星も少ないのだが。月だけだな。よく見るのは。月で思い出した。道長の望月の歌の月はもう過ぎたのか。
『光る君へ』もまだ観てなかった。最近は興味も薄れているのだが。
最近アクセス数も減っているのは一日の投稿数が定まっていないからなのだが、日記だといつも一定数の人が観てくれているのでこの数が本当の読者数なのかも知れない。
noteはそういうのを煽るように出来ているよな。数字がすべての世界なのも嫌な感じがするのだが。数字だけ上げてこれだよと説明されても内容だよな。
で、最近のアクセス数減少は記事が一定してないからだと思い曜日制にしようかな。その方が楽なのもあるが、日記は毎日書くとして、俳句と短歌は曜日制がいいかもと思いながら現代詩は思ったときにやらないと詩神が離れてしまう。
その他読書は、書いたり書かなかったりするのだが読書メーターが調子が悪い。最近繋がりも良くないし、記事をアップしたらKindleの方にアップしていたり、同じ本だから統一してもらいたいと思ったり。
それはまた図書館で同じ本を借りてしまうために、読書メーターの検索で調べるのだが、一般書籍とKindleと旧書籍があって、それが反映されるのだ。
図書館本だと旧書籍にも入ってないのもある。また同じ本をKindleと分けていたので同じ本を借りてしまって腹立たしいのだ。
その一冊のお陰で予約本を借りれなかった。また読まずに返却するので、持ち運びだけに借りているようなものだ(本の重さは馬鹿にならない)。
そんな話はどうでもいいのかも。要は老化なんだよな。読んだ本もわからなくなるなんて。それでここに記録を付けたりしているのだ。
読書メーターが無くなったら他の居場所を探さなきゃならんな。最近この手のサイトは統合されたり有料になったりするんで、すべての元凶はAmazonだと思うのだが、Amazon便利だしとも思う。
そういう資本の独占化は数値の世界だから、意味の世界ではないのだった。
自然は無意味の世界でそこに意味を見出してしまうのが人間というものだろう。
それが神ということで、やたら運命とかになってしまう。
今の世界はインチキ占い師か未来予想の評論家が持て囃されるのもそういうことだった。
そのなかで意味のない数値が重要視される。それは数値の世界が経済システムだからなのだ。
だらだら書いてしまったけど『光る君へ』を観た。道長の望月の歌の回。もうここがクライマックスみたいだな。あとは落ちていく感じなのか。
道長もそれが喜ばしいことではないのは、実はそれは望月ではなかったということなんだが、唱和して終わった。道長が望月と言えば望月なのだ。
返しは短歌で詠むんだな。
このあと武士の時代がやっていくる。