シン・短歌レッスン21
葛原妙子短歌
今日も川野里子『幻想の重量』から。
葛原妙子の歌風は最初からあったわけでもなく、疎開体験と短歌結社の中に目標とする先輩がいたということだった。その先輩倉地與年子の影響の元で出版されたデビュー歌集が『橙黄』だ。
第三歌集『飛行』も「女人短歌会」を通して横の繋がりとして、森岡貞香と中城ふみ子の影響があった。それは、葛原妙子がほとんど孤高の女王だと思っていたのだが、同時代の歌人らと相互に影響があったのは驚きだった。特に中条ふみ子はリアリズムと幻想という相反する歌風だと思っていたが、掲載歌を見るとなるほど影響関係が伺える。ただ中条ふみ子はどこまでも自身の身体を通していたのに対して、キリスト教文化というクッションを挟んで幻影的な身体性を詠っているのが違いか?
「マリア」の「くれなゐの乳首」というのは挑戦的である。ほとんど「乳房喪失」ぐらいには強度のある言葉だ。つまりリアリズムの「くれなゐの乳首」で描けない繪としてのマリア像なのだ。そこに中城ふみ子と似たような身体的な哀しみがある。
中条ふみ子以上に影響を受けたのが森岡貞香という歌人のようだ。中条ふみ子の方がむしろ葛原妙子の影響を受けているようだ。これは、当時、釋迢空が「女歌」という一文を寄せて新しい女性歌人を鼓舞したからということだった。そのときに出来たのが「女人短歌会」という横の繋がりだったようだ。そして、釋迢空と斎藤茂吉という二人の近代歌人の巨匠が亡くなった年でもあったということで短歌界もターニングポイントとして前衛短歌が出てきたのだった。
模範十首
山田航『桜前線開架宣言』より「高木佳子」という歌人。葛原妙子と同じ結社「潮音」出身で葛原妙子の流れをくむ幻想歌人であるようだ。
息子に「少年」を初めて用いたのは、葛原妙子に影響を与えた森岡貞香だという。彼女もシングル・マザーなのか?育児詠というジャンルを築いたという。ただナルシズムではない幻想性を帯びるということなのか?
「光る破片」と「地図につなげよ」が葛原妙子の系譜か?
虫に譬えるのは森岡貞香『白蛾』があった。
「羽」の譬えは天使じゃなく虫なのだ。
第二歌集『青雨季』は少女期の連作短歌だが、東日本大震災の被災の歌もある。魚や鳥に託した比喩の見事さかな。
俳句レッスン
今日も又吉直樹X堀本裕樹『芸人と俳人』から。夏の季語「子蟷螂(かまきり)」の一句。
軽部烏頭子は明治生まれの昭和の俳人。前回重要なことを忘れていた。子蟷螂が卵から孵ってすぐに野に放たれる一句。生存競争の真っ只中にいきなり放り出される世界を詠んでいる。
成虫の蟷螂は秋だという。夏、秋、冬と季語がある蟷螂。
「蟷螂枯る」は冬の季語だが、卵なのかな?違った。蟷螂が冬になって緑色から枯木色になって、死んでいくのを「枯る」と言っているのだった。でも卵の意味もありそうな。
「や、かな、けり」の俳句
「瞬けり」は、断定の助動詞「けり」ではなく、「瞬く」の命令形「瞬け」に完了の「り」が付いたもので違っていた。こういう文法は難しい。間違っても慣れしかないようだ。
「花火」は「ひらいて」は言葉の意味が重なるので「ひらいて」は不要。「廃道も」の「も」も説明っぽくなるので良くないという。「も」には注意が必要。
自分の思い入れが強すぎると説明的になりがちで余白の響きがなくなる。サラッと作ってみる。余白を感じさせる。
俳句は二割の共感でいい。
俳句のテクニックまとめ
擬人法(ものを人に譬える)陳腐になりやすい。決まるとカッコいいかも。
直喩(ごとし、のように)。使いすぎに注意。
「ぼうたん」は「牡丹」。間延びした感じと百という数が「ゆるる」と緩やかな暖かさが温泉のようだと。桃源郷かな?
隠喩(直喩を通さず直接言葉を当てはめ異空間に、二物衝動はまさにそのテクニック)
金剛(ダイヤモンド)と露(水)の対比。しかし水は石をも摩耗させる。
倒置法。通常の語順を逆にする。
重曹法(リフレイン)。韻文の効果絶大。
擬音。実際の音を真似て自分の言葉で表現する。擬声語、擬態語。
遠近法。近くのものから遠くのものへ見渡す。距離感、立体感を出す表現。
数詞(数字)。数字を使うことで具体的になる。数は厳密さを求めない。動かない数を使うこと。時刻は駄目?
雪俳句で挑戦!
擬人法
直喩
隠喩
擬音
遠近法
スマホで道を探している。
数字
思ったより難しい。
小説短歌
『おいしいごはんが食べられますように』
凄い短歌だけど句跨りなのだ。破調だな。