存在の耐えられない芸術家
『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』(2023年/ドイツ/93分)監督:ヴィム・ヴェンダース 出演:アンゼルム・キーファー、ダニエル・キーファー、アントン・ヴェンダース
映画という枠内でのカタログ的な「アンゼルム・キーファー」の芸術というような映画。3Dだったのか?そういう仕様の映画館ではなかったが、「アンゼルム・キーファー」の人と成りを知るにはヴィム・ヴェンダースが的確だったのかもしれない。
「存在の耐えられない軽さ」。クンデラの本のタイトルだが、キーファーが逆のことを言っていた。我々は「存在の重さに耐えられない」ので軽さを好むというような。キーファーの作品は巨大で重々しいのだが、それは歴史の中にあるドイツにおけるナチスという問いを問い続けるからであった。ナチス的敬礼とかのポーズをするのは、その敬礼の意味を思い出させるためなんだろうか?逆に本来なら意味のない敬礼だったものがナチス的ポーズとして重さを孕んでしまう。そうした問いを問い続けることがキーファーの作品であるという。
例えば鉛で出来た本とか、衣服の固まった表現(新表現主義とされる)とか、軽さの反対にある重さについて。それはキリスト教的な救いという概念(もうひとつ羽ばたく羽と風のモチーフがある)と対置するものなのかもしれない。破壊というリリス。「エヴァンゲリオン」的だが、原初の悪魔は聖書に出てくる排除された妻(女)リリスであったというモチーフがあるのだ。それは悪魔主義的なゲーテ「ファウスト」を連想するのだが、キーファーの過去の記憶が悪魔主義的にならざる得ないリリスから生まれたということのようだ。
廃墟の森で囁く顔のないリリス像は、破壊の象徴であり、置き去りにされた悪魔(ナチス)なのかもしれなかった。そこにアウシュヴィッツで消滅させられた者の声が重なる。ツェランの詩の朗読とか。
死という問題は元来我々の隣にあったものだのだ。詩で死がテーマになるのもそういうことを想像するからかもしれない。それは現実ではなく超現実的世界なのだ。概念(イメージ)と言ってもいい。それをキーファーは表現していく。
そうしたキーファーの芸術は枠付けることは出来ないものなのだが、映画という枠内でヴェンダースが表現しようとしていたものはドイツにおけるキーファーの問いというものだったのかもしれない。そこに映画の物語として彷徨う少年を描いたのは、キーファーの夢としてなんだろうか?