目に菊花詩吟歌えば李白かな
目覚めるのだけど寒くて起きれない。肩も痛いし。トイレだけがやたら近い。絶不調になったな。風呂入って洗濯しなければ。
昨日は引きこもりだった。休日だったのもあるし、読書は伊藤比呂美『野犬の仔犬のチトー』。「高橋源一郎の飛ぶ教室」で紹介され図書館に予約したのだった。
殺処分になるような人には慣れない野犬の仔犬を動物保護センターから譲り受けて育てた三年間の記録なのだが、伊藤比呂美が野人みたいな人だとおもっていたら、けっこう繊細な神経をしていて、だから宗教的なものにのめり込むのだが。癒やしのために保護犬とかのHPを巡回しているうちに飼ってみたくなったと。
そういえばTVでもやっていたのを見たけれど一応保護センターの人が最低限のしつけとかするようなのだけど、野犬だけは親犬が人間は恐ろしい動物だと仔犬に教えるものだから(事実なんだが)人に姿を見せないように犬の群れのなかで生きてきた、一度も人に飼われたことがない犬だった。TVでやっていたのは、捨て犬で引っ越しのためにペットが飼えない人が捨てた人馴れしている犬を飼い犬が死んでペットロスになった人が譲り受けて犬・人とも幸せになったという番組だった。
それが人に慣れない野犬の仔犬の育児(人ではなく犬)日記なのだが、日記文学としても面白い。それは共存という社会でどう仔犬がしつけられていくかということなんだが、先住犬のクレイマー(この犬もアメリカで保護された犬だった)と猫のメイとテイラー(クイーンのメンバーの名前、こっちは譲り猫の兄弟)の中に野犬の仔犬が加わり生活していくのである。
最初に先住犬のクレイマー(雄六歳)がいたのでチトーはクレイマーに慣れたようで、人が来ると隠れるが最初から犬同志は中が良く猫たちともじゃれ合って遊ぶのだが、人に触れさせようとしないので、散歩のリードが付けられない。首輪も保護センターで無理やり付けたもので成長とともに首輪が犬の身体にめり込んでいるのだが、それも取り替えることが出来ずに異臭がする。その首輪付けとリード付けに大騒ぎするのだった。
餌をやる人なので段々と慣れてくるのだが、触らせるようになるまでが大変だということだった。動物保護センターでも人に触らせないペットは飼えないということなので、まずその訓練をするのだった。その時は犬よりも猫の方が大変だという話だったのだが。野犬ならばなおさらという気もする。
やっと伊藤比呂美のベッドで一緒に寝るようになり、寝ているとちょっかいなど出してくる仔犬らしさを見せ寝起きだけは触ることができるようになるのだが、普段は触ろうとすると(首輪を取り替えるとか)あっちこっちに小便を垂れ流すそうなのである。かなり酷い家になっていると思うがペット好きの人は平気だよな。猫を飼っていたときも猫の毛なんて気にならなかったけど注意されて気がついたり、最近では駅の階段で上着(黒のフリースとか)に猫の毛が付いていたりすると気になるのだが。
ペット飼いたいが一度猫を飼って一人では飼いきれなかったので、それに死に目にも合っているからなかなか飼うことは出来ない。文学でもそういう忠犬や可愛いネコの話は多いのだが野犬は初めてだった。保護犬の活動とか駅前でよくやっているが普段は素通りしていく。中にはその寄付金狙いというのもあるという話も聞くのでそういうのにかかわらないようにしているのだ。
それでたまたま昨日はつぶやき短歌のほうでもペットの短歌の歌が出来たというわけだった。今日の一句か?
また季重なりの山本山だった。NHK俳句を見なければな。それからだな。目という一字の題詠はけっこう難しいのか残り一六音も言えるので、それが多いのか少ないのか。
だいたい高得点句は決まってくるもので、グループ内での暗黙の了解が出来て高得点句は、そこのリーダーの句作の傾向によるのかな。ここではオノマトペの出し方がプロとアマの差が出たという感じだ。
やっぱプロらしい誰にも読めないようなオノマトペを使う。それも対句の取り合わせだ。下五が字余りということだが、それを感じさせない上句の畳み掛けに凄みを感じる。上五の「ぬと頭」がいい。普通は「ぬっと頭」としてしまうのだが、っを省略したことでのスピード感か。ちょっと今までにない句だった。
これもオノマトペが対句になっているのだが、「ショボショボ」のありきたりさかな。スマホゴロゴロも目がゴロゴロするということで同じことをシンプルに詠んだということだった。季語が「夜長」も平凡で選ぶのは難しい。逆に
がいいと改作した人がいた。少数精鋭だとそういう批評も勉強になるな。自分はスマホゴロゴロが意味が取りづらいので逆にした方が意味としては通りやすいと思った。
アルノちゃんの季語を平凡なものではなく普段つかわないようなものでトリッキーさを出してみたらというのは面白いという意見を取り入れてみよう。
これはいいかも。スマホで蚯蚓の動画を見て泣いてしまう。どういう状況なのかわからんが物語性が出てくる。アルノちゃんは指導もできるようになったと高野先生のお褒めの言葉。けっこう読みが深いよな。
これは「もういいかい」で隠れん坊とわかるので、つむってはいらないと思った。俳人の生駒大輔も似たような意見だった。ただ高野先生の解釈は句以上で、秋彼岸でお祈りして目をつむっているときに隠れん坊の声が聞こえてくるというものだった。逆に古坂大魔王が年寄りが「もうそっちに行っていいかい」という意味の句という読み。みんな読みのレベルが上がっている。自分はまずそういう読みは気が付か成った。秋彼岸という季語が立っているのだから墓参りということだよな。
後から気がついたのだが旧仮名の文語体だからプロの句だなと思えばもう少し深読みできたのだが、青い目の外人かよと思って取らなかった。白目をよく見ると夜空が映り込むというような。そこまで星一面の夜空なのだ。流星を数ふといういいかたは、そこにおまじない的要素がはいってくるのか?ファンタジーの世界観だけど俳人らしい句なのかな。「青麗」主宰で青学出身で青が好きな人みたいだ。
これもけっこう凡人句だと思ったら、高田正子が「天動説」という意見で蕪村の菜の花の句を思い出した。
確かにこの句を踏まえているような気がする。高野先生は「天体」が漠然すぎてどうなのかと言っていたが、生駒大輔はそれを受けて「天体」も「冬の街」も漠然と広がってしまったと素直に批評を受けているのだった。なかなか勉強になるのは少数限定だからだろうか?駄目句にも批評が届いて、勉強にもなる。それでは仕切り直しで今日の一句。
そんなことはないのだが、俳句の伝統だよな。酒が必要か。
また李白を持ってきた李白好き。まあ。こっちの方がいいだろう。李白の菊花の漢詩はあったかな?月はよく詠むのだが。予想通りあった。
菊花は黄花ということらしい。それを使えばこの詩のことだと分かる人には分かるけど。菊花でいいと思う。色々種類があるから黄色だけに限定するもんでもないし。「シン・俳句レッスン」終わり。次は短歌か?短歌はまたあとで。