俳句雑誌を読むにも指標がないと面白くない
『俳句 2024年10月号』
「大解剖! 魔法の一音」
【総論】「一音に出来ること……今井 聖」では短詩と言われる俳句の中で効果的な一音の使い方(主に助詞だろうか)について述べているのだが、一音の言葉を使った俳句とか芭蕉の一音の句とか、多少意味がズレると思った。
そんな中で注目したのが井上弘美「置き換え不能の一音」。
一読ではわかりにくいが「とれど」は逆説の助詞で「~けれど」の意味だという。逆説は俳句には有効であり、ここでは「抱くほど」とリフレインっぽく逆説になっていた。「ぬ」の打ち消しよりも迷いが感じられるからだろうか?「ぬ」だとそこでも切れて三段切れになるのか。
これは順接であるが、こっちでもいいような気がするが、逆説の場合その曼珠沙華を取ることが虚しさを掻き立てるのかもしれない。つまり一輪(数輪)は取ったということなのか?
「に」は場所を示す助詞だが説明的になると敬遠されるが、「春寧」がよくわからんが「はるね」で春を尋ねるということか。むは否定形なので、「一燭に」はまだ春が来ないのか?伎芸天の微笑みが春のようだということらしい。ややこしいな。解説がないと理解できない句だった。
「き」が打ち消しの助動詞で痛恨を現すという。でも上五で収まっているのをわざわざ字余りにしたのか?これも難しい。
小野あらた「スゴイ一音の句」
この句は小野あらたが取り上げた句で、俳句の「は」も説明的で省略したり「の」に変えたりできるのだが、ここでの「は」は上五の「夏蜜柑」を強調するのだった。「は」を省略すると夏蜜柑はぼんやりしてしまうという。つまり墓石に映ったというそのものの姿だが、「は」で切り替えることによって夏蜜柑の木がたち現れてくるというのだった。「は」の使い方が重要だということだ。
高山れおな「vs芭蕉一音名詞句合十番」
特集「大解剖! 魔法の一音」から高山れおな「vs芭蕉一音名詞句合十番」。名詞の一音句から芭蕉と現代俳人の勝負(ゲーム)なのだが、歌合と同じスタイルでやってみる。
岡井省二の「艪」は「ろ」とも読むがここでは「かい」の方がいいのではと思う。中七できっちり収まるのだ。よって芭蕉の反則勝ち。でも芭蕉のほうも「かい」ではないのか?となると地(引き分け)か。
それにしても芭蕉の句は字あまり過ぎるな。「櫓の声波を/打つて 腸 はらわた氷るや/夜の涙」ということでやっぱ「ろ」と読むみたいだ。「声波」「せいぼ」ということで音波だという。「櫓の声波を打つて」で一区切りかな。その方がすっきりするか?なかなか曲者の句だったが芭蕉の勝ちか。
芭蕉の句は手伝いに来た弟子に雪だるま(団子)を見せる芭蕉の無邪気さと大人の男の対比か。芭蕉のほうが可愛い感じで芭蕉の勝ちか。原田芳雄は映画の世界だから。
芭蕉は何気ない木でも俳句に詠んでしまう見事さか。伊勢神宮での一句だという。左(下)は理屈っぽいから芭蕉の勝ち。
時鳥の句は、杉田久女の句「谺して山ほととぎすほしいまま」を思い出す。芭蕉を意識していたのか。芭蕉が俳諧師に成り代わるという句だという。そのぐらい意気込みのある句だった。左はウクライナ侵攻の社会詠だという。黒豆を煮ているという句。意気込みが違うんで芭蕉の勝ち。
魚の涙は水に消え、柚子の目は匂いということか?芭蕉の方が馴染んでいるで芭蕉の勝ち。ちょっと贔屓すぎるか?右の句は恋の句だという。柚子の花より君の目ということだった。柚子は君への当てつけか?
馬と父の闘いか?「ほととぎす」は何かを象徴をする鳥なんだろうな。「ひとり」というのは母だろうか?右の句は父が化粧をするという解釈だ。それはないのでは。野良仕事から帰ってくるのだから、待っている人が化粧をするのだと思うが。「ほととぎす」は芭蕉の「ほととぎす」愛だという。愛がある方が勝つんだけど下はわかりにくいか?
芭蕉の句は神社祈願のあとの温泉で身体を清めているのか。そういうのがなしに花見のあとの湯の句だな。月野ぽぽなは俳号が印象的なので勝ちにしたいが、ここは地で。
この芭蕉は平凡だな。そこがいいのか?逆に澤の句は太陽に月だった。「残んの日」は残り少ない命という意味だろう?「残の月」という大道寺将司の句集の題にもなっていた。よって左(下)の勝ち。
哀れさは三橋の句のほうだと思うから素直に三橋の勝ちか。海苔の砂は今はないものな。江戸時代はそういう海苔が多かったのだろうか?
高橋睦郎の俳句は難解漢字が苦手なのでパス。よって芭蕉の勝ち。菊の酢和えが美味しそう。
俳句の中の虫
「俳句」の連載では俳人が書くものより、学者の奥本大三郎のコラムが面白かった。ががんぼの哀れさみたいなものがある一方で、イギリス人の昆虫学者が付けた学名が「ミカド」とかいうのだと。日本産の優雅で大きいガガンボが、イギリスの昆虫学者を喜ばせたというのは、当時鎖国状態で日本いる昆虫は未知なる生物だったのだ。その当時作られた『ミカド』というオペレッタから付けられたとか。
「批評の考」板倉ケンタ
俳句でも短歌でも批評がないと言われる。それは「批評」の指針がないからではないからだろうか?結社によってその指針はあるのだと思う。有季定型を守るとか。しかし、それを外で大っぴらげに口に出来ない雰囲気があるのかもしれない。例えば俳句雑誌に掲載されている俳句の膨大さ。そのいちいちに意見を言えるわけでもなく、好き嫌いの気分で判断するのではないか?そこに批評なんて面倒臭いことは必要ないのかもしれない。
ここに掲載される「合評鼎談」でも批評的なのは横澤放川だけで他の二人はただ褒めるだけだという。それは大抵の句がベテランの句なれば年下としては意見も出にくいのだろう。うっかり批評でもすればベテラン勢に叩かれるかもしれない。だからあたりさわりのないところで誉めて頑張っているところを見せるしかないのだろう。
思うに批評というより評価の基準がないのである。つまりここに自分の俳句を宣言すればいいのだ。
とりあえず3つぐらい。
まず第一に今日の変化を詠むこと。それは日常俳句ではあるのだが変化にポイント置き変化するものを詠むことだ。
第二に物語性の復活。これは思想性に通じると思う。創造ということだ。
第三に蕉風であること。やっぱ芭蕉の精神は重要だ(芭蕉が改革者であったということ)。芭蕉が志した俳句、「ニ物衝動」「不易流行」「聖と俗」は重要だ。そこに諧謔性と無心ということだろうか?とりあえずこんなところか?