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「魔の山」は読みたい文学の山でもなかった

『魔の山上』トーマス・マン/著 、高橋義孝/訳

第一次大戦前、ハンブルク生れの青年ハンス・カストルプはスイス高原ダヴォスのサナトリウムで療養生活を送る。無垢な青年が、ロシア婦人ショーシャを愛し、理性と道徳に絶対の信頼を置く民主主義者セテムブリーニ、独裁によって神の国をうち樹てようとする虚無主義者ナフタ等と知り合い自己を形成してゆく過程を描き、“人間”と“人生”の真相を追究したドイツ教養小説の大作。

『魔の山』は再読だがまったく覚えてなかった。今回100分de名著をガイドに読み進めて、それまでわからなかった部分がよくわかる。まず結核療養所の世界が死の観念(尊厳)としての場所として描かれていく。それは主人公のハンス青年が夏休みに従兄弟を見舞う彼岸の旅のつもりだったが、次第にその死に取り憑かれてしまうのである。その死は病者の諦念(ひとつの生の放棄から快楽的になったりハンスのように観念的になったりする)。その中でハンスはショーシャ夫人(学友のキリギス人に似ているので、マンの同性愛のモデルとされる)に恋する。

それは死を前にした放埒した自堕落であり、ヒューマン主義の文学者セテムブリーニ(兄のハインリヒだとする)に「魔の山」を降りるように忠告されるが、ハンスの死の観念から抜け出せない。それはセテムブリーニの合理主義の観点から死は尊厳ではなく生物学的なものだとする(そこに理想を見出さない)。魔の山が象徴するのは隔離された病棟の中で精神を育んでいく青年の教養小説なのだが、そこに戦時に向かうドイツの姿を描いているという。前半はセテムブリーニとの対話が重要だと思った。ハンスが憧れる死の観念はトーマス・マンも持っていた。

この小説で重要なのは時間の概念で、『魔の山』特有の時間の概念があるということだ。それは、ハンスの取って非日常の世界なのだが、それが病ということなのである。最初の予定では三週間の旅の予定だった。つまり夏休みの気晴らしの旅で従兄弟のヨーアヒムを見舞う山の療養所の旅だったのだが、ハンスも病に侵されてしまう。それが恋の病と重なるのだった。

夏休みの時間は最初はダラダラ一日が長く感じるが一週間前だと宿題もやらなければとかその一週間の短さというか、時間感覚のあり方が等値ではなく、相対的なものだという感覚。それは棲む社会が外界(健康な人々)の世界と病の者の世界とがあるからだった。それをベルグソンの時間の概念で説明しているようなのだが、そういうことよりも恋の時間とか学校の時間とか夏休みの時間が違っていると思えばいいだろう。『魔の山』の時間は、それまでの社会的時間ではなく、退廃的なブルジョアの病の時間だと言っているのか。前世紀的な貴族的気分に囲まれた人々という感じか。ショーシャ夫人はその退廃性を表していた。

またそのサナトリウムを管理するベーレンス顧問官は「顧問官」と呼ばれるようにそのサナトリウムの管理者なのだが、かれがサナトリウムを始めたきっかけが病の妻の思い出のために、つまり病がメルヘンになってしまった医院長なのだった。その部下であるクロコフスキーは最新治療として「精神分析」もやるのだった。

『魔の山下』トーマス・マン/著 、高橋義孝/訳

カストルプ青年は、日常世界から隔離され病気と死に支配された“魔の山”の療養所で、精神と本能的生命、秩序と混沌、合理と非合理などの対立する諸相を経験し、やがて“愛と善意”のヒューマニズムを予感しながら第一次大戦に参戦してゆく。思想・哲学・宗教・政治などを論じ、人間存在の根源を追究した「魔の山」は「ファウスト」「ツァラトストラ」と並ぶ二十世紀文学屈指の名作である。

従兄弟(ヨーアヒム)の見舞いにベルクホーフ(魔の山)へ来たのだが、逆にヨーアヒムの方が山を下りハンスは「魔の山」での自堕落な生活が身について山を下りられないのだった。この二人は双子座の神話のように描かれているという。

なかなか読み進められなかった。やっとナフタが出てきたところ。第三回で重要登場人物ということだった。ナフタは神秘主義思想を持った男。二元論なんだな。二元論はあまり好きではなかった。一元論的な性格。性格で決まるのではないと思うが二元論は哲学とか面倒臭いとおもってしまう。ナフタも面倒くさい奴のようだった。ナフタリン臭いというか?

セテムブリーニとナフタの戦争論争は難しいというか、セテムブリーニも条件付きで戦争は止む得ないと考えていたのか?ナショナリズムと自由主義という思想があるのだが、当時(第一次世界大戦)は戦争肯定論が主流だった。マンもほとんどそうだったらしいが、それで兄のハインリヒと対立したので、その影響化にあるという。セテムブリーニが兄の立場でナフタがマンなのだろうか?今も戦争は必要悪だというような考えが主流になっているのか。だから軍隊は必要だというような。

ナフタはイエスズ会師ということだが、初期キリスト教の神秘主義(グノーシス)とかの影響を受けているのだろうか?もともとはユダヤ教でカバラを追求した果にグノーシスにたどり着いたような原理主義的な感じがするのだがこの頃に流行った最新の新興宗教であり、ニーチェの超人思想も入っているような。このへんは深堀りすればいくらでも深く読めるような気がする。要はそれがナチズムと繋がっていくような気がするのだが。

セテムブリーニがフリーメーソンの会員というのも気になる。それも当時の思想的流行なのだろうか?と思ったり。ブランショとかをイメージしてしまう。というかトーマス・マンの中にブランショ的な思想があるのかもしれない。それが超右翼としてのナフタと博愛主義者のセテムブリーニの対立だろうか?この二人の議論はほとんど現代思想だった。

その中にハンスという青年がいて、モデル小説になっているのだが、間違えていけないのは、マン=ハンスではないのだった。モデル小説だから当時のドイツが戦争に進んでいった理由を明らかにしたいのだと思う。だからセテムブリーニの自由主義は当時のアメリカ的思考の自由主義かもしれない。ナフタは神秘主義者の国家論だった。選ばれし皇帝(教皇)による理想国家のような思考がやがてナチズムに繋がっていく。

今、334.pでやっとヨーアヒムが戻ってきたところ。軍隊に入りたくて外界に戻ったのだが、そこで病気を悪化させてしまったのだ。最初ヨーアヒムがハンズを迎えるという逆の形になったのだが、今回はヨーアヒムには母親も付き添っており、けっこう絶望的な状態なのだった。このあとヨーアヒムは死ぬのだが、ハンスは死は尊厳あるものと考えており、分身であるような従兄弟が死んでいく覚悟で山に上ってきたので、思想の変化が起こるのだった。ここはけっこう重要な場面だと思う。トーマス・マンが戦争になってから思想を変えたこと(それまでは軍国主義だった)の現れであるからだ。

時間に関しては下巻で音楽の時間は一つの流れとして進むが物語の時間は二つの時間ばあり、物語の中の時間と外部の時間と。それは音楽の時間のように一定速度で流れる時間ではなく、物語の中にも反芻する時間(過去の時間が折り重なっている)。つまりハンスにとってヨーアヒムの死はヨーアヒムの人生が終わったとしてもハンスの記憶の中では増幅された時間を生きるのだ。それはハイデッガーの時間論と関係があるのか?時熟という時間はただ時計的に過ぎていく時間ではなくその中で成熟していく時間なのであろう。

今ナフタが何故イエスズ会師になったのか?という所を読み終わって「死刑論」というような。そういう議論がなされる思索小説なのだ。

以下のサイトはトーマス・マン『魔の山』とデモクラシーについて詳しい。

第七章までで挫折。その後は「100分de名著」に譲る。たぶん、こういう思索小説はこれまでに読んできており、今読みたいとも思わなかった。世界文学という山の頂きに上りきれなかった。



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