シン・短歌レッスン8
コセンダングサとGoogleフォトで出てきたのだが、棘の数が二本なのでコシロノセンダングサのようである。ただの雑草というか引っ付き虫とか言われているあれです。
棘が二本なのは、アメリカセンダングサもあった。そっちかな?ひっつき虫図鑑とかあるので、そちらを参照。
塚本邦雄短歌
「ほととぎす」は植物もあるんだ。ああ写真撮ったことあった。柄がほととぎすに似ているからそう名付けたと出ていた。
古今集「郭公なくや五月のあやめぐさあやめもしらぬ恋もするかな」の本歌取りらしい。「ほととぎす咲くやそのかみ」までは、古典調で、それ以降は固い漢語を使用した転調を示していると解説。またか行の音韻もぎこちなさを示すが、(戦前の〉現実の両親を歌ったものか。
模範十首
今日も中条ふみ子をやります。そろそろ飽きてきたかも。
「わが妬み」から詠む人はなかなかいないと思う。
この死んだ恋人は映画『乳房よ永遠なれ』で森雅之が演じた大森卓だという。
憎まれて「熾烈に生きたし」という感情の激しさ。それを「大楡の葉」に喩えているのか?
米兵みたいなのだが、どこで出会ったのだろう?
米兵が駐屯していたようで、彼らが去ったあとに日本人妻が残されたということなのか?
『北の季節』はアイヌの歌が多いのだが、米兵といいアイヌといい異邦人に思いを寄せているのかもしれない。
外山滋比古『省略の詩学 俳句のかたち 』
季語というのは閉鎖空間に閉じ込めるから詩的強化されるというようなことが書いてあり、西洋詩は外へ拡大する方向へなっていくのが違いだみたいな。それで月というと中秋の名月が最も美しいのは日本人の偉人たちが詠んできた総量としてあるというような。
結局この人の主張は、俳句は切り捨ての詩だということに尽きるのではないか?言語ナショナリズムとも言ってしまっている。言語ナショナリズムなぜ悪い?先進文化国は、ナショナリズムに傾いているとさえ。問題はこの先進文化国という思考なのだ。
著者の本を調べると「思考の整理学」という本に当たる。それはアカデミーのために思考を整理して余計な雑念を切り捨てていこうという本なのか?とも思う。そこには橋本治のような雑念は入らないだろうなと思うのである。そのような思考のあり方を問題提起していたのが、ドゥルーズであり、フーコなのではないか?中央集権的なアカデミーは外部の思考を排除する。
その例として、アメリカ人が季語を制定しようとしたら季語が定まらなかったという話が出てきた。それでアメリカ人は俳句が理解できないとなるのだ。この問題は戦時に植民国で季語が制定出来ないとしたことにも繋がると思う(南方の熱帯地方の俳句は、受け入れがたい)。そこから出てきたのが戦争俳句という無季の俳句なのだ。それを俳句とするかしないかということだろう。季語に拘泥する限り戦争俳句の余白の残虐さは見えてこない。やはり桑原武夫の第二芸術論についてやり過ごしてはならないのだ。例えば戦争俳句を多く残した金子兜太の句。
金子兜太は戦時の俳句を石鹸に隠し入れて持ち帰ったという。それは検閲されて排除されるからだ。そうした俳句が今日まで残っているのである。
今日の映画短歌
『桃尻娘 ピンクヒップガール』