シン・短歌レッスン159
岡井隆
岡井隆の根本は保守性なのだが短歌の方法論が革新だった(というか何でもやってみる)というのが、若手や同時代の前衛歌人から評価を得るのだろうか?だが権威となってしまった彼を批評するものがいなくなった。塚本邦雄が生きている時は彼が批評者だったようだ。
つまり塚本邦雄と両輪の時代があり、本人の発言もあるが塚本邦雄には負けたくない(人気面で)という気持ちが革新的短歌を産んでいく。もともと技術論に長けた人だった。またマルクスなども読んでいるので、そういう面でも大衆というものを理解していたのかもしれない。一番大きいのは、吉本隆明との短歌論争で論破されたことかもしれない。そこで彼は短歌とはと考えるようになった。その中にナショナリズムもあることをいち早く悟っていた。
塚本邦雄がライバルとして短歌を批評や称賛するのも、塚本邦雄が絶えず他者だったかもしれない。そして、岡井隆はそういう他者を必要とする人であり外部からの刺激を求めた。岡井隆がサイードとか言うとは思わなかった。インテリは権力志向になりやすく。大衆はそれを支持していく。そこに絶えずアンチというネガティブな存在がないと独裁的になっていく。独裁的というよりも一人勝ち状態でやがてそれはマンネリズムとなって衰退していくのだという。
岡井隆がライトヴァースの歌人たちを批評しながら、その中に埋もれていくのは経済的なものだろうか?そういうことが無視出来ない状態にあって、それは個人ではどうにも出来ない問題だという。歌壇のカルチャーセンター化があり批評はなく画一化した歌が注目される。その一方で専門化もあり彼らは内輪だけで楽しむ。
面白かったのは俵万智を泣かせた事件というのが書いてあって佐久間章孔が「あなたの歌は保守的、超保守だ。つまり今の短歌を革新するというものではない。思想的にも保守だ。こんなものでも文学が変わるわけがない」と言っていじめたと書いてある。この事件から批評がしにくくなったとか(その事件で還って俵万智の同情票が集まったとか)。とんだ聖子ぶりっ子ぶりだ。まあ文学は関係ないかもしれないがビジネスは変えたんだよな。彼の方が消えていった?
穂村弘も俵万智を泣かせたとAIにでていたのだが、ソースが見つからなかった。俵万智を批評出来るのは穂村弘しかいないと思うが。
俵万智
『現代短歌一〇〇人二〇首』というアンソロジーから。逆年代順ということだった。俵万智はわりと前半の方だった。
この韻律は型破りかもしれない。3335577だ。333を9とすれば、95577になるのだけど「さくら」の音の重ね方は韻律的だし、5577も韻律的なのか?短歌のリズムは音数ではなくて長短のリズムだと言うのだが、この短歌はそうなのかもしれない。そのリズムの内に非日常から日常に還る刹那さだろか?けっこう気に入っている。
ほぼ定型。直喩の上手さか?嘘という非日常が洗い流され海に還っていく。やっぱ感情表現が上手い。
これはインパクトはあるがリズムが乱れている。そのドキドキ感か?
永田紅
家族が歌人一家というサラブレッドは定型好き。
わかりすい定型。「まるき曇天」は丸い雲なんだが色が曇天色だからかもめの白があざやかに浮かび上がるのだな。ただ前半の格言と後半の情景が合っていると言えるのか?定型で読み飛ばして意味も考えないから最後の絵が浮かび上がるのか?
これも定型の力か?文語体が土鳩も優雅にさせている。
これも定型の力だろうな。「湯水のように怖ければ」意味がわからん。お湯なのか?「日輪の輪の下」とは?太陽の下ということなのか?わざわざ日輪なんて使うか?歌人だからか?
横山未来子
定型はあまり意味を考えないのか?「あをき血」というのは青春時代の比喩だろうか?「雨後の葉のごとく」は葉脈ということか。このへん意味不明。ただなんとなく好きなきみへの歌だとは感じる。
恋愛短歌だろうか?
韻律が悪いな。
短歌の韻律 小池光
句の基本単位が五・七の奇数音であるのは日本の基本名詞がニ音であるから、また助詞は一音で2n+1で奇数になるという。三音では短すぎ九音では長すぎる。五・七が歌を記憶するのにちょうどいいという。
五・七調は音数ではなく緩急のリズムであり五音と七音を同じ調子でよむのがポイントで五音は長く、七音は短く早くよむことによって緩急のリズムを作っている。西欧の定型詩は韻によって成り立ち、中国の詩は文字数によって決まる。日本の和歌は緩急のリズムによって自然のなだらかな形を作る。また西欧や中国が左右対象を好むのに対して日本の詩は非対称の文化だという。
また字余りは許されるが字足らずは不可とする。