『この30年の小説、ぜんぶ ; 読んでしゃべって社会が見えた』(著)高橋源一郎 , 斎藤美奈子 (河出新書)
この二人の書評はけっこう読んでいる。特に高橋源一郎が好きだからだろうか。ここに上げられた本はけっこう読んでいた。ただそれらの本は情報として読んでいたが文学としてはどうだろうと、最近疑問になる。
社会が見えるというか、そういう本を選んでいるがただ文学と情報は違うと思う。社会が知りたいのなら新書やドキュメンタリーの方を読むだろう。一時の話題で情報として文学を読んでも再読に耐えれるかというと話題作はどうでもいいように思える。例えば大江健三郎の小説はここで批判されるけど再読に耐えられると思うのはそういう批評本も出ているからだ。この中で何人そういう作家がいるだろうか?
女性作家というならば韓国文学の方が面白いと感じるのは何故だろう?世界文学性のようなもの。内向的すぎるんだよな、と感じてしまう。それは家父長制が問題なのは、どこの国でも出てくる問題である。ならばあえて日本の小説を読む理由はなんだろうか?と考える。無論文体が好きな作家はあまり社会性とか関係なく読んでいると思う。社会性に囚われる必要はないのではないか?いや社会性なんて自ずと作家が向き合えば出てくる問題なんだと思う。だから今でも漱石や太宰は読まれ続ける。
たぶん最近のマーケティングの手法かな、ネットで新作をどんどん宣伝するけど、ほんとうに読みたかった本は何冊あるだろうか?ということなのである。数多くの新作本の陰で次々に絶版や廃版となっていく本があるのだ。世界文学なんて流行ではないだろう。例えば最近話題のプラトーノフは、時間が経つとあっという間に読めなくなってしまうと思う。
今読んでいて面白いと感じるバルザック『幻滅』は、詩人がパリに出てニュース記者となり流行作家(記者)となる話だ。その原作映画を見て読みたくなったのだが、全集でしか読めないのだ。これは今のネット社会へと転換期である話としても読める文学だと思うのである。ただ全集で二冊の長編なのだ。そのような世界文学を読みたいと思うのだが情報としての文学も気になっているのが現状だった。だから芥川賞とかは読むようにしているが、最近そういうのも考えるようになったのは、大江健三郎を読むようになったからかな。
例えば『源氏物語』は時代を超越して読まれ続ける。別に社会性とかはあまり関係ないような(無論当時の社会性は興味があるが)。それよりも普遍的な恋愛や老いや死の問題。それらは普遍でそういう問いを発するような『源氏物語』以上の本が現在出ているだろうか?世界文学性というも。それは異国のことが書かれているということではなく、その本が一つの世界だということ。少なくとも再読に耐えうるような本を読みたいと思う。
図書館にいるのは老人ばかりというのは当たっているというか。暇だから行き場が図書館しかないのかもしれない。例えば『源氏物語』とか『失われた時を求めて』なんては暇じゃなきゃ読めないわけだった。文学ってそういうものだと思うのだ。
普通に社会人やっていて本が読めるかというとそんなに読めないと思う。せいぜい芥川賞程度の中編か、新書ぐらいだろうか?新書ブームもそんなところだと思うのだが、文学をじっくり読めるのは学生時代かリタイアした老人ぐらいだろう。そういう人に文学は必要とされている。つまり社会人ではないのだ
社会からはみ出した人にこそ文学は必要で、小説家という人もそんな人たちだろうと思うのだ。今期の芥川賞は『ハンチバック』だと思うが、そういうことだよな。より文学が必要と感じる人に文学は寄り添う。