文芸誌の短歌特集を読む
『文學界(2022年5月号) (文學界新人賞発表)』
「第127回 文學界新人賞発表 年森瑛(としもりあきら)『N/A(エヌ・エー)』」
特集「幻想の短歌」が気になって図書館で借りたのだが、前回の芥川賞候補作である年森瑛(としもりあきら)『N/A(エヌ・エー)』が掲載されていた。もう誰も見向きもしないと思うが面白い作品。わずか半年前なんだが、芥川賞も消費されていく。受賞作も覚えてないし。
年森瑛(としもりあきら)『N/A(エヌ・エー)』は審査員全員一致とかあったけど微妙に温度差があり、一番積極的だったのが金原ひとみのようだった。作風が思春期の女子高生心理で、タイプは違うが金原ひとみのデビュー作『蛇にピアス』に感じは似ている。つまりこれはオジサンにはわかりにくい女子高生小説なのだ。
ひとりだけ消極的に皆さんがいいんならいいですよ的だったのが東浩紀で、欠点として大人が描かれていない女子校の世界観だというオジサン丸出しの評価。まったく描かれていないわけではなく、男性高校教師のがずれた説教をするので鼻血を出してしまった女子生徒の印象的なシーンなどは秀逸だと思った。
そこが一番引っかかったというか、この教師は世界史なのだが、生徒がその授業で韓国語の勉強をしている(韓国スター推し生徒)に「非常識な国の言葉なんか学んでいるから非常識になるんじゃないのか?」と言う。この生徒は脇役なんだが、彼女が観た世界を描いているように思える裏ヒロインなのだ。絶えず友達に気を使い過ぎる生徒でありヒロインの女子生徒とは対称的だ。
ヒロインは女子校では、人気のあるスタイルの拒食症のジェンダーに違和感を感じる少女。彼女の成長記録的青春文学。その彼女は年上の教育実習生(女性)と仲良くなる。それはちょっと周りからは異質なことなんだが、相手の女性は同性愛を推進しようとする自身のSNSにヒロインの許可なく写真をアップする。それを忠告してくれたのが鼻血少女で、それで教育実習生とは別れる。
現在のSNS社会や友達同士の深入りしない関係性やジェンダー問題(同性愛も)を取り入れた短編で上手くまとめていると思う。中学時代から大人になる思春期までの女子生徒を描き出している。そして中村文則が指摘するように、最後で元恋人と言える大人(教育実習生=他者)から反撃を食らうのだ。
そのシーンによって生理が再びやってくる。それは鼻血少女と通じる身体的な事件であり、彼女はそこで思春期が終わったのだ。だからこの物語が書けたのだし、その視点は問題少女よりも鼻血少女の方であるのだと思うのだ。「かけがえのない友達」というのがテーマでヒロインはそんな友達は居ないと思っていた。
ただこの小説が書いたことが「かけがえのない友達」に宛てるメッセージのような気がする。オジサンにはなかなかわかりにくい話だが、それを読んでいるオジサンもいたのだった。そのヒロインと教育実習生の間に肉体関係はあったのか?とか、読めないオジサンは見当外れなことばかり言っていた。
タイトルの『N/A(エヌ・エー)』がよくわからん。現代思想に出てくる感じなんだけど。ネット検索したら「not applicable(該当なし)」、「not available(使用不可)」の2つの意味を持つ言葉であると。コンピュータ用語のnull(データが存在しない)という意味らしい。そういうことか。
【特集】幻想の短歌
なかなか読み応えがありました。
〈座談会〉大森静佳×川野芽生×平岡直子「幻想はあらがう」
「幻想」というのは、孤立してみんなと観るものがちがってしまうというで、女性作家に多いのは身体的なことで疎外されることが多いからだという。あと前世代の価値観に疑問を感じ得るとき社会はその前世代が支配した世界だから変化させたいという願望がユートピアだったりディストピア的世界として現れてくるのだろう。ただその作者の思惑も権力側に取り入れられてしまうこともある(共同幻想論)。未来派(ユートピア幻想)などはそういう歴史がある。
トドロフ『幻想文学序説』
「詩では幻想は成り立たない」「寓話の剣」は、「人を傷つけるもの」の象徴。詩は文字通りの意味を受け取るべきである(韻文と散文の違い)。「幻想的な物語の語り手は普通、私と名乗る」一人称的(私)は、この語り手は夢を見ているか揺らぎ(疑い)が生じている。
「普通になる口語の短歌」/宇都宮敦「聴覚イメージとしての短歌 口語短歌リズム論」
技術的なところでは、短歌の音韻論で、音韻の心地よさで幻想を生み出す。それは太古から伝わるリズムなのだろうか?それとも好みのリズムなのか?このへんは研究の余地あり。ただこの人論述は専門過ぎてよくわからなかった。日本語はアクセントがなく単調な4拍子だという。それを2つ重ねて8音からなる5連。それだと単調なんで75調になるのだが、その配列はよくわからない。それを五七五七七に分節化している説。
5音は2・3パターンで7音は3・4パターンの言葉の組み合わせとか。2音は春とか海とか大和言葉になる。三音は動詞になるのかな。漢字の熟語はそれから外れてしまう(最近漢字の熟語にやまとことばのルビを振るというテクニックがあると知った)。2音は純粋なる大和言葉に多い。短歌を読む人は自然と五七五七七のリズムで読んでいるという。文語短歌が無くならないのはそうした理由だった。3・7パターンはいろいろな言葉を入れられるはずなんだが、口語短歌だと音数が合わない言葉が多いので句跨りのテクニックが使われるという。あるいは破調にする。そういう分析をしてみると面白いかも。こういうのは頭で考えてもなかなか出来ないもので暗唱しろと言うのは身体的覚えるということなんだ。
「短歌の幻想、俳句の幻想」
俳人三人(生駒大祐×大塚凱×小川楓子)と歌人(堂園昌彦)の座談会。堂園昌彦が俳人三人に質問すると感じなのか?この座談会は短歌と俳句の明確な違いを知って面白かった。ざっくり言うと短歌は人を詠んで、俳句はもの(自然)を詠むということだった。俳句には季語があるので、それを主題として立てると五七五の短い言葉の中では人物は消える。
勿論その背後に詠んでいる人物はいるのだが、俳句を読むということは季語をメインに鑑賞するなので、背後にいる詠みてのことは考慮に入れない。だから自由に批評できるのだが、ただ季語というそれまでの俳句の歴史の中で培ってきた「共同幻想」あるのだ。だから俳句の個人は全体性の中で希薄になり、戦後桑原武夫のような「第二芸術論」も出てきた。
しかし完全に自我というものを捨てたのではないことは前衛俳句や無季俳句運動の中に見られる。それは治安維持法時代に弾圧された歴史もあるのだ。俳句の無季の句は、季語を敢えて読まないので、幻想的になるということだった。
それは幻想的とは一般的な見方を拒否して孤独に耐えうるものだとする。自由律の俳人は、そういう孤立観の句が作者名と共に提示されるのだ。
だがそれは有季の場合でも個人の詠みで本来持っている共同幻想をズラすことも出来る。というか今の時代はその季語と合わない現実があるのだ。例えば「雪」を冬の風流と見立てるうたの伝統があり、雪深い地方では生活の驚異として現れてくる。
また都市部でのいつでも花が咲き乱れた花の季語はただの約束にしかすぎないので、実際に写生をしようとするとズレが生じる。そのズレを感じさせて幻想的な俳句になることがあるということだった。
くどうれいん「へびの会話」
アイドル歌人と思っていたがエッセイは面白かった。彼女もマルチな才能の持ち主で、たまたま歌人として騒がれているけど、表現は短歌に限定されるものではなく、様々な顔を持っているようだった。
その中でエッセイの文体は最近のネット文体の延長にあるような、気ままな若い女の子の発する言葉なんだと思った。それはオジサンにも短歌よりはわかりやすいかなと思う。
ヴァージニア・ウルフ「今日の芸術はなぜ政治を気にかけるのか」
第二次世界大戦前のファシズムの台頭時にヴァージニア・ウルフが要請された「政治と文学」をテーマとしてのエッセイで今読むと切実に感じるのは、生活のために文学活動をしているものでも政治の影響を受けざる得ないので、それを規制する政治には声を上げていこうということなのだ。ヴァージイア・ウルフという極めて政治性からは遠い作家だと思っていたが、ここでは当たり前に文学者が政治に関わることを述べている。
戯曲『マギー・チャン』莊梅岩作・石原燃訳
ヴァージニア・ウルフの言葉を受けて、今回この戯曲を掲載したのではないと思うが、この戯曲は天安門事件で息子を殺された老夫婦の物語として、香港在住の作家が発表した戯曲だ。無論、これは中国では発表できない作品であり、きわめて政治色が強い作品なのかもしれない。
しかしそこに描かれている母の息子を失った悲しみの普遍的な家族愛という物語でもあった。それが国家と対立する構図は、ロシアのウクライナ侵攻時でもニュースになった兵士たちの母とも重なるだろう。
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