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シン・短歌レッス120

王朝百首


面影のかすめる月ぞやどりける春やむかしの袖のなみだに                    俊成卿女(むすめ)                      

俊成卿女は新古今時代の代表的女性歌人。子規内親王を別格とすれば俊成の孫にして養女、藤原定家の姪に当たる歌系。後鳥羽上皇も『新古今 恋二』の最初に置いた歌人でもある。

したもえにおもひ消えなむけぶりだにあとさき雲のはてぞかなしき  俊成卿女

『新古今 恋二』

王朝百歌の歌は過ぎ去りし恋の思い出なのか?塚本邦雄は月が好きだな。ディオニソス的な幻想世界なのではないかと思う。アポロ的詩とは対極の。

西行

辻邦生『西行花伝』
「一の帖」、藤原秋実が西行の生まれ故郷紀の国の乳母(92歳)を訪ねて西行の幼い頃のエピソードを聞き書きする。乳母は蓮照尼だが乳母時代の呼び名は「葛の葉」という。谷崎潤一郎『吉野葛』を意識しているのか、『吉野葛』が西行のことも描いていたのか(そこは記憶がさだかではない)。多分辻邦生『西行花伝』の方が後の作品なので、谷崎を意識したのだろう。それは母恋いという話を含んでいるからだ。

母方の血筋が今様の師範の祖父と伝説的遊女(今様舞)の娘である母の舞と祖父の舞で芸能の血を引いていることと父は奥州藤原家の血筋であることが描かれる。

「二の帖」、藤原秋実が西行(義清)が出家の理由とした亡き友佐藤憲康の霊を黒禅尼に呼び出して西行の少年時代を語ってもらう。黒禅尼は芥川『羅生門』に出てきそうな乞食婆だった。義清の天才的な運動神経と母思いの気持ち。そして母の死。

文武両道にすぐれた西行の血筋は、目崎徳衛『西行』でも描かれていた。このへんは事実的な伝承なのだろう。

「日本人に取って短歌とは何か」

『現代にとって短歌とはなにか』から第二部、佐佐木幸綱「日本人に取って短歌とは何か」。

佐佐木家は歌人一家だから誰が誰なのか分からなくなる。系図が欲しい家系だな。天皇の歌は読み方がありそこに国見というかお告げの延長のような。言霊で言えば庶民に知らしめる上から目線。また自然に対しては仰ぐような大きな歌を歌ったという。おもしろいな、そんな天皇もハレの歌ばかりではなくケの歌も歌ったときは女房にして女になって歌ったというのは始めて聞いた。

ハレとケということかな。聖と俗かな。それで庶民が恋文とか詠むのはケになる。日本の短歌的な韻律は、「ハレとケ」とで考えるとわかりやすいかも。例えば桑原武夫が否定した「俳句第二芸術論」は、俳句よりも短歌の方で問題意識が強く、それは戦後公的な短歌を否定して個人的な短歌が詠まれていく。それがリズムの問題として、例えば七五調は奴隷の旋律と小野十三なんかが言ったのだ。

塚本邦雄などはそれを受けて句跨りで表現していく。その影響化なのかもっとも口語で句跨りを使ったのが俵万智だという。それは口語短歌は文語のリズムに合わないからだった。平安短歌でも実は句跨りが使われているのだが、それは口語的なものだったという。

だから公(ハレ)としての和歌と俗(ケ)としての和歌があり、短歌でもケの方が生き残った。俳句は和歌のハレの中にケを混じらせたので、最初から第二芸術論でけっこうだという主張がある。またそれは、俳句や短歌だけではなく、詩(近代詩)や小説の中にもある。ポイントは公的な言葉と私的な言葉の区別ということになるのか?

辞世の句などは、軍人も死刑囚も右翼も左翼も個を捨て公のために命を犠牲にするという歌が多い。俳句でも坪内稔典が「辞世の句」という死のパターンが面白いと思ったのだが、続けているうちにみな同じような句になるという。つまり個を消して自然に還るといような。

それは自己否定が仏教によってもたらされ、神道的な公と一体となる精神が否定されていくのは、仏教によってなのだ。そこで出家とか解脱とかなるのだが、人間何かに帰属してないのはやりきれないので死後の世界というものが出てくるとまた一緒になってしまうようだ。

それと日本人が和歌で文字を持たない人まで共通言語として五七調の型で上から下までコミュニケーションが出来たという。それが外国人が新聞投稿欄に短歌や俳句が掲載されるのが不思議で、一億総詩人なのかと疑問を呈したりするのは、外国では詩というのは極めてインテリ(知識が高い者)が詠むもので庶民は詩などは詠まないという。それは中世から日本では共通言語として貴族から卑俗まで歌を詠んだということらしい。

それで例えば白拍子などの芸能の人たちの存在、そうした歌(民謡的)なものが庶民から貴族まで伝えられたのだろう。それは仏教でも和讃という文字を読めないものでも節で覚えるとか、また芸能の歌が庶民に広まるとか七五調という定形は覚えるのに適していた。

それが鎌倉時代になって武士が出てくるとケの方は消されてハレの公ばかりになっていくという解釈もあるようだ。だから平安時代はハレとケが混じり合っていた。それは『源氏物語』でも一番ハレの歌を歌うのは光源氏なのだけど、ケの女たちと共通言語として和歌が使われる。そして女で一番上手いのは明石の君だが、浮船などは最初は下手な詠み手だったが、最後は素晴らしい歌を残す。そのように階級が下のものでも和歌に通じるということが出来る。

最近の短歌は自己批評がなくてまた公的な翼賛体制になりはしないかというのが、富岡多恵子の俵万智批判だった。俵万智は佐佐木幸綱の教え子だった。だから短歌の知識があり、それを上手く口語で宝塚のようなファンタジーを少女漫画のように作ったということなのだろう。教師というのもあるよな。

『短歌研究 2024年2月号』批評。

『ひたくれなゐに生きて』「八十年生きればそりやぁ(佐伯裕子)」齋藤史

俵万智のインタビューは祖母と孫娘のような感じだったが、佐伯裕子とは娘と母のような会話かな。佐伯裕子の祖父が戦犯として処刑されたので、佐伯の方が思い入れが深いのかもしれない。ただ齋藤史はすでに過去の昔話なので、明確には明らかにしない。それは記憶と表現の違いなのか?すでに表現されたことも昔話のようになっているのである。

そこの記憶がリアリティある現実と受け取る佐伯裕子とは齟齬があるような気がする。佐伯は日本人であることのこだわりのようなものを感じるのだが、齋藤史はやはりモダンガールなのだ。佐伯裕子がこだわる変化も内面といより社会的なものの変化のように受ける。

白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう

暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

「白い手紙」の方はモダニズム短歌だが、「暴力の」は2.26事件後の歌だ。それは青春当時の歌とそれが過ぎ去ってしまった時(軍国主義)の時代の歌では違うのが当たり前で齋藤史の内面の変化といより社会(環境)の変化なのだ。それが信州の疎開先でも変化に対応していかなくては生きていけない人間というものを知るのだが、齋藤史の中にあるのは部外者としての異邦人性であり、その中で醒めた目で生きていかなければならなかった。そしてそれがある時から道化のようになるのだとさえ言う。

佐伯裕子の一途な真面目さ・保守主義的な傾向とは違う跳んだ婆さんなのである。それが「八十年生きればそりやぁ」という短歌になって現れる。天皇についても、人間宣言して逃げたのだという。神だったならば間違えないはずであり、人間になって間違えたという、そういう天皇だったと。この言葉は凄いな。『神聖喜劇』を書いた大西巨人が齋藤史の短歌を引用しているのが分かる気がした。

現代短歌史

篠弘『現代短歌史Ⅱ前衛短歌の時代』から「十代歌人の胎動」。寺山修司が脚光を浴びる前に十代が作る短歌雑誌「荒野」が創刊された。それは今だったら雑誌社が企画としてやるようなものではなく、自主的に十代の若者が集まったということだった。それは高校短歌大会で知り合った学生同士で立ち上げたもので歌壇でも注目を集めた。

しかし寺山修司の中心だったのか、かれが病気で退いていくと尻つぼみになっていく。彼らが十代を卒業したのもあり、そうした精神は下の者には伝えられなかった。「荒野」から分裂した関西中心の「実験」も創刊されたがそれまでだった。

映画短歌

今日は、『カムイのうた』。


本歌

暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

ちょっと優しすぎるかもしれないな。

帝国のひねもす侵略消えたアイヌユーカラのうた白骨の文字  やどかり

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