むしけらたちの反乱
『完本 春の城』石牟礼道子
ページ数900ページの鈍器本。キリスト教徒でなくとも石牟礼道子の十字架に磔にされるほど感動します。田中優子の解説に石牟礼道子は「もだえ神」だ、とあるのだが、水俣病患者を目の前にしたときに何も出来ないが心が「悶えていく」共振する震えというその姿がキリストと重なっていくのだ。田中優子は石牟礼道子が四郎に見えると書いたが、それを産んだマリア=観音菩薩なんだと思う。
水俣学というものがあるが、石牟礼道子を拝んでしまう作家たちによる石牟礼教みたいな(本人は教祖だなんて思ってないが、むしろ巫女的)ものがあるような。彼女の聞き書きとしてのスタイルが『苦海浄土』から『完本 春の城』を書かせた。
『完本 春の城』は『草の道』という「天草・島原の乱」を取材した紀行文があり、そのときに権力側の幕府征討軍鈴木三郎九郎重成は女・子供を一人残らず惨殺した光景を観てその原因の一つに天草・島原に課せられて重税(年貢)があったとして、乱の後に統治を任せられると幕府に直訴した受け入れられずに自害するのである。幕府側にもそういう人がいて、むしろ鈴木三郎九郎重成中心の物語を構想したという。それには物語が収まらないので、「天草・島原の乱」を中心とした群像劇にしたのだが、そこで描かれる多様な人間模様がテーマとしてあるのだ。
「天草・島原の乱」がキリスト教徒だけの反乱ではなく、重税に苦しむ農民たちの一揆から始まるのだ。そこにかつてポルトガルから伝わった切支丹の弾圧の歴史もあった。ヨーロッパのキリスト教徒にしても植民地化という目的もあったのだが、島原・天草の人々に触れた神父たちとの交流があり村人にバテレンとして伝わっていく。それは日本の民衆と共に祈りの姿として、例えば観音菩薩の裏側にマリアが描かれるような間の子(言葉は悪いがハーフのようなものとして日本で生まれたものだった)の宗教の姿なのである。その根源には農民たちの自然(土や海)の信仰があるのだった。アニミズムと言えばそうなのだが、そこから発展していくキリスト教みたいな血筋。そして、天草四郎の母は遊女として天草に生きた女性である。彼女の姿がマグダラのマリアと重ねられるというが、炎上のときに四郎を抱きかかえていたのは島原の農民の母であった。そのラストがピエタと重なっていくのだが、そこまでに様々な道があって島と廃墟になっていた城に繋がっていくのだ。
最初のシーンが島原への嫁入りのシーンだが、『草の道』で最後に地元の農婦たちに尋ねて昼の嫁入りと夜の嫁入りどっちがいいと聞いて、そりゃ昼だ、というので最初のシーンが決まったという。ヒロインの一人おかよの実家は仏教徒だが彼女の母が島原から嫁に来た経緯があっての切支丹に嫁入りするのだった。
その家の侍女おうめは仏教徒ながら先代の嫁の子守としてずっと付き添ってきたのだがキリスト教徒にはならなかった。その伏線として孤児のすずがおかよの娘のあやめの子守としておかよの実家に預けられ生き残るだった。すずとおうめの話も侍女の姿として描かれる。現在から考えると従属契約だからおかしいと思うがそれが彼女たちの天命だったのである。そしておうめは仏教徒(親鸞の教え「なむあむだぶ様」)として参加して活躍する。それは城の籠城に炊き出し女としての後方支援ということなのだが、最後は大釜を投げつける仁王様になるのだった。もう一人仏教徒の僧侶も今弁慶として活躍するのである。そういう闘争の面白さも描いているのだが、中心となるのは農民たちの暮らしであり、虫けらのように殺されながらも畑の虫たちを愛してきた者たちは彼らの生まれ変わりとして(輪廻転生だからキリスト教ではないな)ふたたび虫となって後世の者に伝えていくのである。そして生き残ったすずの前にも貝の姿となって伝えていくものがあるのだ。
このストーリーも泣けるが、やはり天草四郎のストーリーも外せない。遊女の母から生まれたのだが幼いときに養子となって商売での才能は無かったが人を導く才能を発揮して、伴天連の長として14歳の四郎が大将に抜擢されるのだが、その側に仕える右近との友情が萌え萌えだった。右近のことを兄者と呼ぶ四郎に腐女子なら憤死するぐらいの描写なのだ。そのあとに『源氏物語』を彷彿とさせる青年二人の舞楽の舞があるのだ。『平家物語』の滅びの美学というような雅な世界。また乱が佳境になるときに四郎が女性に転移するシーン(遊女の母の心が潜入してくるような)があるのだが両性具有という感じだったのか不思議なシーンもあるのだ。そこに巫女としての四郎と石牟礼道子を重ねるシーンだったのかもしれない。
悲劇的な結末がありながら籠城するシーンは農民たちの明るさもあるのは、水俣闘争の経験だという。そんなときでも女たちは季節の食べ物の話をし、それを周りの者に振る舞う。酒飲みの男がトリックスターのように登場してくるのだが海の海賊としての夢のシーンもあり農民だけではなく漁業に仕えるものたちもいるのだった。彼の夢は四郎の船を漕ぐというものだった。