流れよわが涙、とディックは言った
『流れよわが涙、と警官は言った』フィリップ・K・ディック (著), 友枝 康子 (翻訳)
日記の方に感想を少し書いたのだが、精神が混乱して正しく書かれていなかったので正式な感想。
私に取ってはディックはかけがえのない作家で、後期ディックの精神世界を告げるこの作品も大好きな作品なのだが、いまはあまり傑作とされないらしい。それはディックが切り開いてきたインナースペース(内宇宙=精神世界)が今では当たり前のようにSFに取り込まれ、ディストピアSFが普通になっている。
インナースペースは当時のイギリスのニューウェーブ系作家達の言葉だと思った。まだサイバーパンクという言葉もなく、新しいSFと言えば当時はニューウェーブ系作家であり、例えばレムなんかもそこに含まれていたように感じる。ディックはアメリカでは例外というか、こういう精神世界を描いた後期ディックはカルト作家扱いだったような。
この作品も管理社会から抹消された人気歌手がIDを失ったために露頭にさまようというストーリーになっている。SFよりは文学的でダヴァナーの視点とそれを監視する国家警察のフェリックス・バックマンの覗く世界と描かれており秀逸だと思った。2つの世界、監視する側と監視される側の世界がないまぜになった世界というのは、当時キャンディーズの追っかけをやっていた石破茂が自民党の中枢に入ったような世界を感じるのだ。
これを読んだのはサンリオSF文庫で当時は岩波文庫よりもわくわくした作品が多かったように感じる。ダヴァナーはカストラートでありその彼が歌う「流れよわが涙」というダウランドの曲がテーマの一部になっているのだが、当時の荒廃した社会にあっての清涼剤としての音楽、その幻想世界が精神世界へと繋がってゆく。
またディックのお得意の動物を使った喩え「エミリー・ファッセルマンのネズミ」の寓話が物語内物語として重要になってくる。それは聖書のような喩え話になっていくのだ。
日記ではドーベルマンと書いたがドイツ・シェパードだった。また犬の方がルールを知らなかったというのは間違いでネズミの方がルールを犯していた。つまりネズミは猫との遊びが世界のルールであったと思ったのだが、犬の世界のルールを知らなかった為に、犬に噛まれた後に怯えて暮らすようになる。それは60年代の怒れる若者がオイタした為に国家警察からさんざん痛めつけられる70年代世界(警察だけじゃなく世間の視線がそのような管理社会だったのだ)に呼応している。ディックの影響下から村上春樹とか庵野秀明なんかのセカイ系が日本のサブカルチャーを作ってきたのだ。
小説の話に戻すと三人称小説なのに一人称のモノローグ的描写は「意識の流れ」で後の「サイバーパンク」へと発展していくのだが、その先行作家がディックであったのだ。SFと文学の境界を取っ払って、SFの中に文学を折り込んで行ったのがディックなのだが、それと同時に文学の世界にチープなSF世界を折り込んだのもディックと言える。
例えばアウトウッドの『誓願』とか読むとディックの世界を感じる。また当時の文化状況も背景にあり、ドラッグと米ソ冷戦と終末論的世界と管理社会とラブ&ピースのポップアイコン(庵野秀明のエヴァとかラヴ&ポップなんかのセカイ系の始まり)が混沌とするディックの精神世界を描いているのであった。
「意識の流れ」はフォークナーやジョイスらによって取り入れられた表現方法だが、ダヴァナーがIDを失った後にさまよう現実世界はリッチな世界から底辺の世界へさまよう「意識の流れ」と言える。またフォークナーのように登場人物を章ごとに置き換える手法も、ここではダヴァナーとバックマンの章に分けられて描かれている。それは後に村上春樹の小説にも利用された精神世界のアンダーグランドと現実世界の表層とを書いた小説とも似ている。