剽窃す只事でない図書館本
蜜柑が成っていた。酸っぱそうだから盗まないけど。狐の論理か?「酸っぱい葡萄」だった(イソップ童話の話)。そうだ、図書館本を切り取る奴がいて腹を立てていたんだ。
だから有季定型派は綺麗事ばかりでやっていることが汚いという印象を持ってしまうのはお前のせいだぞ、と忠告したい。そういう時代なのかもしれない。自分さえ良ければという欲望の従属社会だからだと思ってしまう。
まあ俳句も適当にやっていればいいのだがのめりこんでしまって今日二回目の句会だった。五句どうにかして用意したが自信はなかった。今回は前回以上の句もない感じだ。なんか革命的な句が出来ないだろうかと考えているのだが思い通りにならない。今回は有季定型で点が入るように作ったが只事句が多いような気がするだから、何?というような。今日の一句。
記念書き子みたいな日詠句だった。もう少し改良して句会に出せないか?図書館本を季語にして、読書週間にするとか。ちょっと難しいか。こういうのは短歌の方がいいのかもしれない。今日の一首。
感情が先走って字余りになっていた。ちょっとクールになって。
そう言えば昨日見た映画『国境ナイトクルージング』でも本を万引きするシーンがあり、それはゲームとしての遊びに近かった。大島渚の紀伊国屋で万引きするシーンも度胸試しというゲームのようなものだった。それとは違うと思うのは、それは彼らのはけ口だったから。閉塞感みたいな。
『国境ナイトクルージング』は中国映画なのだが上海で作られた映画でちょっと北京主体の映画とは違う感じがした。『少年の君』とか『ソウルメイト/七月と安生』で怪演していたチョウ・ドンユウが出演していたので観たいとおもったのだが。普通の行き場のない青春映画だった。ちょっと中国映画だからなのかファンタジーにしてしまうところがあって、虎と熊の閉鎖された雪山の中で人間になるという神仙思想が織り込まれているのだが、わかりにくかった。そこは国境の街で朝鮮族がいる街でそこを超えて韓国へ自由を求めるのか、でもそこは北朝鮮のような気もして、もしかしたら北朝鮮から逃れてきたのか?そこが良くわからなかった。
ただ都市化が激しい中国で辺境の地で戯れる三人の若者というストーリーで、それぞれ問題を抱えているのだが、そこをぼかしているのでわかりにくいのだった。上海のエリート青年は、氷をそのまま口にするように氷の世界を暗示しているのだが、上海で親友が自殺したというようなそんな悲壮感が漂う。
チョウ・ドンユウ演じる女子はフィギアスケートの選手だったのだが足を怪我して挫折してバスガイドをしながら生活している。その仕事は朝鮮族を部落を案内する仕事で本人はクズ仕事だと思っている。もしかして朝鮮族出身かもしれない。ただどこから来たというのは不明だ。
さらにわかりにくいのが地元の叔母の仕事を手伝っているヤンキー兄ちゃん。ときどき指名手配のニュースや写真が出て、その兄ちゃんかと思うがそうでもないような。似ているんだけど逮捕されるということはなく、男が逮捕されるシーンが女の子の夢として出てくるのだ。それは逃亡者というような脱北者みたいな感じなのだが夢の中だからはっきりしない。
その三人が国境の辺境街で遊ぶのだが、そこに中国の都市化が見られる。そして、長白山(白頭山)に行くのだが、そこの神話で先程の虎と熊の話がでてくるのだが、虎は空腹に耐えられなく洞窟を出る。残された熊が神の言いつけを守って人間の女子になるのだが「熊女」と村人から言われたとか。それは蔑んで言われたと思うのはチョウ・ドンユウ演じる女子と重なるからだ。どうしようもない不良娘なのだが、過去に何かあったような。
映画としては無軌道な少女に翻弄される都会の兄ちゃんというような映画なのだが、もうひとりの犯罪者と二重写しになるヤンキー兄ちゃんは何を表しているのか?かれも虎であるというようなことか?動物的な行動の二人に翻弄されながら都会の青年が惹かれていくという映画なのだろう。
そして熊女の正体を長白山で見るのだった。それだけの映画なんだけどよくわからない結末だ。まあ都市化を憂える辺境の街の映画だと思うのだが、中国の体制に多少批判的なのかと思ったのは、神仙思想が当時の政権から逃げて来た詩人や画家によってもたらされたからだ。そういう芸術家の出会いを現在の若者に託しているのか。中国は表立って批判出来ないのでこういう映画が作られるのだと思う。
『蝦夷地別件』は200p.まで読んだ。