シン・短歌レッス97
紀貫之の和歌
紀貫之の『古今集 恋歌二』は「不逢恋」で冒頭の小野小町の夢の恋で有名だけど、ここにも紀貫之が登場してくるのか?もしかして全部の巻に最低一首は入っているのか?それも考えられる。
「思ひ」の「ひ」は掛詞で火も掛けてある。四句目「嘆き」も「投げ木」の掛詞。火にくべる投げ木でますます燃え上がる恋。『新古今集』の式子内親王の紀貫之のこの歌の本歌取りがあるという。
式子内親王の歌は恋人がやってくるという幻想に悩まされながら内なる嘆きを自分自身だけ抱え込んで時間を過ごすという複雑な感情を詠んだ歌だが、貫之は燃え上がる恋を抱えているという単純さを現したものだという。男と女の違いかな?
『古今集 恋歌二』
「恋歌一」はまだ見ぬ恋ということで、噂に聞いて恋するというような。それで歌を送るのだから、よほど自分に自信があるか権力を持っているものなのだろう。この巻は詠み人知らずが多いのは身分を明かせないそういう理由だろうか?
小野小町の夢三首。「思ひつつぬれば」は「思い寝」で万葉集の歌に、
中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌。重婚罪ということで流罪にされた中臣宅守を思う狭野弟上娘子の熱すぎる歌が有名。
『万葉集 巻十五』は離別する中臣宅守と狭野弟上娘子に贈答歌六十三首があり、歌物語として小野小町の興味を引いたのではないか?小町の恋の歌というよりも、架空の恋物語のような気がする。小野小町は中臣宅守の返歌として考えていたのではないか。それは小町が狭野弟上娘子からの影響を受けたと思われる。その性格の激しさが伺えるような。
「うたた寝に」は髙樹のぶ子の説によると「母恋」の歌だそうで、父親に都に連れて行かれたのでその僻地に残してきた母が忘れられないのだという。これも自身を中臣宅守と狭野弟上娘子の物語に重ねたのかもしれない。
「いとせめて」は呪術的な夢占いのような歌で小野小町の巫女性が出ていると思う。小町の言霊の力は巫女的なものなのかもしれない。
関連本。
素性法師は六歌仙の一人僧正遍昭の息子。そのことから髙樹のぶ子は遍昭から託された恋文を小町に届けようとしたストーリーに組み立てている。
小野小町の返信が辛辣なので気の強い女とされたが、場所が追善供養の神聖な場であり、そこへこんな俗人の文を寄越すなんて常識知らずもいいとこなのである。
「きさいの宮の歌合」とあるから題詠なのだろう。女の気持ちになって詠んだ歌だという。
小町の夢の歌に合わせたものだと思える
「恋歌三」で似たような詠み人知らずの歌があった。
島崎友香『寝ても覚めても』はこっちの歌(恋歌二)から取ったのか?
「秋の田の稲葉の」は「そよ」にかかる序詞。「そよ」は葉擦れの音と驚きの詠嘆の言葉に掛けている。
清原深養父は清少納言の祖父だという。「雲居の雁」は『源氏物語』にも登場していた。
ここの並びは豪華なんだ。凡河内躬恒、清原深養父、壬生忠岑、そして紀貫之。
四句目までは情景を詠んだ序言葉「まさるわが恋」が心情で水かさが増すように恋の感情も高ぶってくるの意味。
ラストは紀友則の片恋の頂点の歌だという。方恋の気持ちを肯定している。
葛原妙子
川野里子選『葛原妙子』(コレクション日本歌人選)から。
敗戦後の呆然とした姿だが実生活よりも精神面でだろうか。実生活は夫の病院もすぐに再建されたというので生活面の飢餓感などは無かったと思うのだが信じていたものを喪失した世界なのだろう。それが後に幻視に憑かれることになるというような。葛原妙子の短歌の立ち位置だろう。
「モナリザの微笑み」を「モナリザと癌」と見る発想の面白さか。西欧美術に対する怨念が籠もっているような気がする。
「わが片手空きをり」はまだ意味がなされず空を掴む状態だが一字開けの後に臨終の情景だと知る。二句目までは主体は寝ている人なのだが、三句目からは主体があやふやになっていく。
戦後の食糧難の時代。レモンもまだ高価だった時代だという。そんなレモンを切り分ける娘の素晴らしき人生を祝うのなら普通の歌だが、塚本邦雄は『百珠百華』で定形に収まらない破調であることを見抜いて、この言葉を信じてはいない。
この歌の前に置かれた、
はまったく逆の少女時代を送っているのである。この空虚な歌は日本のおめでたい幻想(レモン)にナイフを立てるのだ。『レモン』に対する象徴性は、高村光太郎『レモン哀歌』や梶井基次郎『檸檬』にも通じていると思う。
ソ連兵に暴行されるぐらいなら自死を選べという日本の夫だが、この薬は後になって睡眠薬だと知るのだ。つまり強姦させるために妻を眠らす薬とも取れるわけだった。それは最初は「スコポラミン10cc掌にあり」となっていたのを「ナルコボン・スコポラミン致死量」にすることによって納得させているのだ。それは妻の行動によって左右される。
「殲滅(せんめつ)」と「鏖殺(おうさつ)」は同じ意味だけど、殲滅は確かに軍隊用語で「鏖殺」は普段使わない言葉であり辞書で引くと「みなごろし」の意味があり魔の言葉として認識されるのだろうか?音韻のためだと云うが隠された意味を積極的に導くからだと思う。
ダヴィンチに養われていた美少年は「モナ・リザ」のモデルではされながらもサライ(小悪魔)と呼ばれた。葛原妙子のダヴィンチ像は、少年に暴力を振るう支配者の関係性だった。エロスの中に従属的な関係性が浮かび上がる。ただ川野の解釈は逆でダヴィンチが少年から逃れられなかったとする。
列車の連なりを髪に喩える。意識の拡大を狙った歌だという。川名里子の解説では、この髪は黒髪で和泉式部、与謝野晶子の黒髪を連想するものだという解釈になるほどと思う。黒髪引き摺られてゆく時間の重さ。
夫という不穏な他者を描いた歌だという。6と通じるものがあるのか?葛原妙子は歌人になるまで良妻賢母の人であったが、歌人になると家事よりも創作活動に没頭したという。こんな歌を詠まれたら家庭不和もいいところだな。葛原は長女とも家族関係に問題があったり、家庭人ではないのだろうな。
NHK短歌
なんとなく見ていた。
今日までだった。
うたの日
「卵」
「百人一首」
また黒髪だった。「黒髪乱れ」で挑戦するか。卵パックか?
最後は字余りだが臭さが残ったということで。「妻」から「君」にした。卵の黄身と掛詞になる。
勘違いしていた。前日のお題だった。まだ14日だったのだ。時間の感覚がわからなくなっていた。
「うたの日」仕切り直し。 「辛 」で行くか?
これでいいや。
「辛」を「幸」間違えていた。まあ、読んでいる世界は辛い世界なのだが。まあ、そこまでは読まないだろう。
♪一つ。当然の結果か?
映画短歌
『フリーク・オルランド』
『百人一首』
フリークスが騒いでいたら夜回りの自警団がやってきて斬りつけるという漫画だな。
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