「夜桜お七」から東直子へ
『短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために』穂村弘
都市を疾走する気鋭の若手歌人、穂村弘が、自己表現の手段を求めるすべての人たちに贈る、まったく新しいタイプのスーパー短歌入門。閉ざされた世界を覆すための「爆弾」としての短歌の魅力、ロック・シンガーのシャウトのように切実な想いを短歌にこめるためのすべを、爆弾の「製造法」(ディスカッションとメールによるレッスン)・「設置法」(仲間をみつけ、同人誌を出し、歌集を作り、歌会に参加し、朗読コンサートを開く、など短歌を発表する場についてのエッセイ)・「構造図」(短歌のどういうところが読者に衝撃と感動を与えるのか、についてのテーマ別エッセイ)の3部構成で熱く語る。さあ始めよう、君の短歌は世界の心臓を爆破する。
0.導火線-最高の爆弾作りをめざして
絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵。あるいは呪文、いっそうのこと扉ごとぶっ飛ばしてしまうような爆弾がないものであろうか。(略)千年以上の歴史があって、雅やかで古くさい。いろんなルールがあって、昔の言葉を知らないと作れない。そんなイメージはひとまず無視していい。
もちろん短歌という爆弾も、作り方や使い方次第でその破壊力は大きく変わってくる。本書では最高の爆弾作りをめざして、その製造方法、設置法から構図まで詳しく説明したつもりだ。
卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピンを抜けば朝焼け 穂村 弘
1,製造法ー「想い」を形にするためのレッスン
「猫又」という同人誌に上げられた短歌を歌人の東直子さんと編集者沢田康彦さん(司会みたいな役割か?)と共に批評していく。東直子さんは天才歌人のイメージが強く私の中では俵万智二世だと思ってしまいます(作風は違うけど短歌界に与えた衝撃など)。その俵万智さんとデビュー時から縁がある穂村弘さんだと知ったのです。
【『シンジケート』新装版発売】現代短歌の旗手・穂村弘の歌の魅力 | P+D MAGAZINE https://pdmagazine.jp/works/homura-syndicate/
そう思うと東直子さんは仮想敵なんじゃいかと思って二人の評価の違いを楽しんでました。
第二部はミュージシャンとのメールでの個人レッスンです。ただ羨ましいでけでした。個人レッスン受けたいな。出来れば美人の歌人さんにイジメられたい。
2.設置法-短歌をいつ・どこで爆発させるか
短歌集の出版の仕方ですね。そこまでは考えてなかった。木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』でも短歌で経済的にやっていく道を模索しています。
若い人ならそう考えるのかもしれないけど定年すぎて後先短いと思っている自分は想像も出来ないことです。むしろそれを仕事にするから苦労するのだとさえ思ってしまいました。ただそれもほんとに一流と認められるまで短歌で飯を食っていけないようです。そのへんで趣味の差を感じてしまいました。
3.構造図-衝撃と感動はどこからやってくるのか
石川啄木の叙情性短歌の系譜を俵万智に見ていますね。共感させることは容易い(本当はもっと奥が深いのですが)ので別の道を進みましょう。俵万智との決別です。
砂浜に二人で折れた飛行機の折れた翼を忘れないでね 俵万智
空を翔ぶ君の歌を思うたび折れた翼見つめる日々だ 宿仮
穂村弘さんに成り代わって詠んでみました。俵万智さんの短歌のくびれっていいですね。今は言わないでおこう。
「嘘つきはどらえもんのはじまり」このあたりは高橋源一郎氏の影響を感じますね。実際に新板『シンジケート』で解説を書いてもらって喜んでいましたから。その時期の源一郎さんの番組「すっぴん」だったかな?ゲストで穂村弘氏が来てました。
戦後の「第二芸術論」に言及してますね。そこまで意識的にやっているぞと。寺山修司の短歌論の引用。
大体、ぼくはストーリーを記述するとき、書く人間に対する疑いをはらまない小説というのは、信用できないという気がするわけです。ぼくが『田園に死す』という歌集をつくってから短歌を作れなくなったのは、短歌形式が最終的に自己肯定に向かうということがわかったからです。(寺山修司『浪漫時代』佐々木幸綱との対談)
俵万智聞いとけよ、という感じですかね。穂村弘が短歌を作るのは短歌の自己肯定感に向かっていくことで、それを利用して自己肯定していかなければならないほど追い詰められていたのだと自白してますね。逆説(パラドックス)なんだ。こういう自己の中で分裂していく感じはスキです。
短歌の「一人称」「定量性」「定形性」「歴史性」などを研究しているぞ、と。岡井隆が反面教師です。
でもこんなに告白していいのだろうか?と心配になります。太宰じゃないんだから。
一米(メートル)あまり隔てて見つつをるこの飛行機は明日に飛びゆかむ 斎藤茂吉
この飛行機は「神風号」でそれを歌った短歌だそうです。「神風号」が「われ」とかけ離れてしまった飛行機の形態、能力、存在感、運命を通して、「われ」の存在が照らし出される。同じ連作の中に「風邪の熱たかくのぼりて居りし夜神風号は飛行を遂げぬ」があり、運命共同体としての「神風号」なんですね。
前衛短歌以降、このように様々な次元で短歌の「われ」が拡散(虚構性の中で自由に振る舞うことか)一方で、「遙かなる他者」との対比によって正岡子規が実感したような「われ」(病者の自分と健康者の他者)は、生のかけがえのなさという一点において、基本的に全く変化することなく百年という時間を生き延びて来たことになる。
サラダより温野菜がよいということがよみがえりよみがえりする道だろう 早坂類
「よみがえりよみがえり」の呪術性ですかね。五九五十七の破調なんだけど短歌の韻文性を保っている。それと温野菜の煮崩れ感に対する愛着。サラダは言うまでもなく敵です。早坂類が気になるな。
青春短歌の非常事態と療養短歌の研ぎ澄まされた写実性。
ギリシア悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち 長岡裕一郎
美女美女が「びしょびしょ」のオノマトペなんですね。自意識過剰なまでの美意識を持つ虚構性。
つばくらめ一羽のこりて昼深し畳におつる糞(まり)のけはひも 明石海人
ハンセン病になり隔離され、晩年は盲目になりながら感性を研ぎ澄まして、「けはひ」で「つばくらめ」の存在を詠う。その日常性は、われわれと対極にある。
生物(生命)と無生物(反生命)の対比によって生じる「一瞬のわれ」
一瞬のわれを見いずる父なく母なく子なく銀の如きを 葛原妙子
死を詠めというのはそういうことなんだな。生命をスパークさせる対象としての死。
斎藤茂吉による写生の訓練。「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」。入力型と出力型の違い。これはよくわからなかった。アンチ斎藤茂吉ということかな?
塚本邦雄のパロディ性(本歌取り、二次創作?)。
やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子
感情型の短歌の典型とされる一首。
さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け 塚本邦雄
理屈(道を説く君)短歌の相聞歌になっている。塚本邦雄はそういうところがありそう。塚本エピゴーネン(模倣者)は、「原子力発電所」のような歌を作らない。自ら安全な場所に身を置いて皮肉っている(快楽を感じている)ということか?
その対極にいるのが、やはり東直子なんだ。共感させる感受性が与謝野晶子の系譜なんだな。
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て 東直子
活字の理屈よりも桃のエロティシズム。「来て」で逝ってしまう男が多そう。穂村くんも逝ってしまったようだ。
加藤治郎の良さがわからない。男東直子なのか?5W1Hを避ける(散文化)。ここから先は現代短歌の仲間たちになってくる。特に女性陣に甘すぎるような。東直子が笑っているぜ!
え、と言う癖は今でも直らない どんな雪でもあなたはこわい 東直子
東ワールドの虜になる。
終章-世界を覆す呪文を求めて
高橋源一郎のような文章だが、そうか林あまりが導き手だったんだ。
あまり知らないけど、坂本冬美『夜桜お七』を作詞した人です。この歌好きだな。
その虚構性と寺山修司の歌の虚構性は繋がりがあるような。呪術性ですかね。