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シン・現代詩レッスン37

今日も阿部公彦『詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること』からいよいよ萩原朔太郎の登場である。萩原朔太郎が重要なのは、口語詩を確立したというよりも「内面」の言葉を詩にした詩人だからなのか。それは誰もがやる方法ではあったけど朔太郎ほど意識的に魅力的にやった詩人はいなかったのである。それが「青猫」の登場する象徴詩であり、その声の音楽性であった。

詩と詩論。先に詩論「自由詩のリズムに就いて」を読んでから朔太郎の詩を読むと朔太郎の言いたいことが理解できるかも。詩の音律は音楽であり、それは定形の韻文にあるのではない。内なる心(精神)に流れる音楽性みたいなもので、それは自由詩が定形の韻文でなくても散文でないのはその中に音楽があるからだという。自由律でただ散文なのとは訳が違う。音楽性こそ詩の原点であるというような。俳句の定形と自由律を考えるとなるほどと思う。音楽性か?だから自由律でも単独よりも繋がり(連句)として読むと音楽を感じられるのかもしれない。

萩原朔太郎『青猫(Kindle版)』

その境地に達するのが「月に吠える」で描かれた病的な内面だったのだろう。今日はそこから「地面の底の病気の顔」から。

地面の底の病気の顔 萩原朔太郎

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらがつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

まず、意味よりもその音韻的な調べが音楽的なのだった。「地面の底に顔があらはれ、/ さみしい病人の顔があらはれ。」ここで「あらわれ」たのは顔で、それも病人の顔なのだが、「あらわれ」が「現れ」でもあり「洗われ」でもあるという啓示の在り方が「顕れ」という詩的言語を誘うのである。

それは地面という闇の世界から発芽という詩の声であり「青竹」は朔太郎の詩的言語となっていた。「青竹」が象徴であり、いままでは動物体でやってきたがここで「青竹」という植物体でも詩になるということだった。

浄土

歯痛は詩通
花に繋げば
鼻に匂い
血が拡がる

大地の土壌
根を下ろせば
芽が出る
目で世界を見渡す

白い花びら
船になり
彼岸の国へ
何妙法蓮華経

やどかりの詩

歯痛にだったので大した詩が出来なかった。昔ディックの本で歯痛の時にダンテ『神曲』を読んで救われた話を思い出して作ってみた。地獄ではないけど植物的な世界から彼岸へ。


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