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今も新鮮なロードムービー映画
『イージー★ライダー』(1969/ アメリカ)監督デニス・ホッパー 出演ピーター・フォンダ/ デニス・ホッパー/ ジャック・ニコルソン
解説/あらすじ
ステッペンウルフの「ワイルドで行こう!」が派手に鳴り響き、自由と平和を求めてハーレー・ダヴィッドソンでアメリカ横断の旅に出た若者たちが、アメリカ南部で偏見・恐怖・憎しみに直面する…。
タイトルが出るオープニングが決まっていて好きだ。ロスの飛行場で麻薬の密輸で金を受け取るシーン。このシーンは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を連想させる。『ストレンジャー~』が1984年でジム・ジャームッシュはニュー・ジャーマン・シネマのヴィム・ヴェンダースの助監督だったのだ。その流れがアメリカン・ニュー・シネマからニュー・ジャーマン・シネマの流れが見て取れる。そしてジム・ジャームッシュは『イージー・ライダー』の旅(ロードムービー)を引き継いでいたのだ。
『イージー・ライダー』はピーター・フォンダのチョッパーバイクとデニス・ホッパーのハーレーに乗ってステッペンウルフの「Born To Be Wild(ワイルドで行こう)」が流れる。バイクと共に風景が流れていく。
前半は先住民(メキシコ)らしき人々との交流がありヒッピーの村に入っていく。ニュー・オリンズのパレードで留置場に入れられてジャック・ニコルソンの弁護士と知り合う。そこまでのアメリカの時代を感じる映画だ。
1969年にウッドストックがありヒッピー世代の全盛期。自由を求める若者が自給自足の村を作る。そこに立ち寄るが二人はそこに留まらない。それはケルアックらのビート詩人たちの影響か?それはアウトローの系譜であり、共同体(コミュニズム)的思考とは外れていく者たちだった。最初に麻薬取引によって金を得ているのだから、当然か。
そういうアウトローの系譜としては「ハックルベリー・フィン」の自分探しの旅でもある。そして、自由と銃とドラッグと神様(キリスト教)が同時代的にある世界だった。それは今も構図としては変わらないのだが、白人のアウトローはヤッピーになり、IT産業に組み込んでいるのかもしれない。
ジャック・ニコルソンの役が自由を求める弁護士だが神とUFOを信じる陰謀論者なのも面白い。彼は自由の行き先が幻想でしかないことをわかっているからUFOのファンタジーを信じるふりをしているのか?この時期のSFはこんな感じだったのかもしれない。ディックとか。
南部のダイナー(アメリカのファミレス)に入ったところで地元の保守的な男たちから睨まれる。そして女の子たちの注目を浴びるのだ。その差異が今のアメリカにもあるのかもしれない。余所者の立ち入りを許さない保守層のあぶり出しは、この頃の映画には多かったかもしれない。トランプのアメリカである。
そしてキャンプ中に襲われたり娼婦の館で快楽を貪ったり(このシーンはドラッグ文化の描写か。シュールレアリスム的な映像である)、そこにキリスト教と自由すぎる若者たちが描写されるが、インテリ風なピーター・フォンダはこの自由の旅の終わり(失敗だったと気づく)を感じるのだった。
南部の保守層は髪の長い若者たちに偏見の目を向けて自由を怖れていた部分でもあるのだろう。そこに銃による拒否感がラストの狙撃とバイクの転倒と俯瞰していく(魂が空から見つめるような)カメラの視線となる様は哀しいアメリカの歴史を伝えている。
今だと結構反感を持たれるのはアウトローに厳しくなっているからか?映画の中でしかそういうフィクションは描かれていないのに。