
戦時の記憶の中で彷徨う「私」という作家
『桜島 日の果て 幻化』梅崎春夫 (講談社文芸文庫)
処女作「風宴」の、青春の無為と高貴さの並存する風景。出世作「桜島」の、極限状況下の青春の精緻な心象風景。そして秀作「日の果て」。「桜島」「日の果て」と照応する毎日出版文化賞受賞の「幻化」。不気味で純粋な“生”の旋律を伝える作家・梅崎春生の、戦後日本の文学を代表する作品群。
大江健三郎と古井由吉の対談の中で言及された小説梅崎春生『幻化』読んだ。梅崎春生は第三の新人の手本になった作家。古井由吉が言うには一人称「私」が志賀直哉らの自然文学のようにただ描写するのではなく、それが死の淵を覗いているという。つまり「私」は死者の姿を見ていて、そこに自分の姿を重ねている。そして梅崎春生にとってそれが遺作となったのだ。死の淵が彼岸である旅人の私はかつての特攻隊の友の元へというような挽歌なのだろう。「幻化」とあるが「幻花」とも読める。それは献花なのだ。特攻隊という者らがいた時代への。
『桜島』は日本人の花見感があるのだろうか?「もののあはれ」というもの。『幻化』でも「桜島」登山で思い出すことがあるのだ。その若い時代を思い出しながら分身がその火口へと立てっている光景を見つめるのである。
「日の果て」もそうした「死の淵」のことではないのか?『幻花』が幻想的なのは「ダチュラ」と呼ばれている花(原名エンゼルズトランペット)は朝鮮朝顔だという。摘んでしまうと瞬く間に萎れてしまうのだが、強烈な匂いを放ち続ける。それで戦友が水死したときにその花を敷き詰めたということだった。その花を積んでもらって旅館に飾ってもらう出戻り女との出会い。
そこにベアトリーチェを重ねてしまうのは、今ダンテ『地獄篇』を読んでいるからだろうか(『四元康祐翻訳集古典詩篇』)。ベアトリーチェは聖母マリアの要請で聖女ルチアンを通して、ダンテが地獄で彷徨っているから天国への道案内をするのだった。出戻りの女というは、かつてその友を埋葬したときにいたお下げ髪の小学生だという。
そうした幻視は飛行機に乗るときから潤滑油が漏れて窓ガラスに黒い染みを作ったシーンから象徴的に語られる。黒いオイルが虫のように感じるのだ。カフカ的幻視というような。そして戦友(部下なんだが)といた時代を空想するのだ。芋焼酎を特攻隊の飛行機の燃料にしていた時代、それを酒代わりに飲んで酩酊していくのだが、その酔いは覚悟ある死のように思ってしまうのだった。
そして私(五郎は)、アル中となり精神病院に入院して、退院すると真っ先に友と一緒に過ごした場所を尋ねていく小説だった。
あとがきで妻である編集者が夫との思い出で桜島へ行ったことを語っている。桜島から見える鬼界島は俊寛が島流しにあった島だという。また当時の鎖国の影響で平屋の旅館が多く、いざというときに密航がバレた客人を逃がすために空き部屋というような出口の部屋(襖を開けるとすぐ外へ通じるような通用口になっている)は、死者に通じる道だったのかもしれない。過去と現在が入り乱れていく幻想小説になっている。