見出し画像

シン・俳句レッスン171




芭蕉の風景

小澤實『芭蕉の風景上』から。

海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉

『野ざらし紀行』

破調の名句だという。破調と言っても五五七だからそれほど破調というほどでもない。句跨りと思えばいいのだった。「鴨のこゑほの」で切れて「かに白し」で意味が何となく通じる。句跨りはぜひやってみたいテクニックだと思う。

飛び立つやかも霧の川かも羽音たて 宿仮

かもは仮定法「かも」と「鴨」の実体を現す。霧の川で驚いた鴨のイメージ。

水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉

『野ざらし紀行』

「水とり」は二月堂で行われる仏事・旧暦二月に人々の悪事をお払いするという。その厳しい寒さが伝わってくる句だ。

三の酉夜桜お七もハイヒール 宿仮

三の酉がある年は火事が多いということで夜桜お七がいまいたらハイヒールを履いていたかもという句。片方の踵が折れてる赤いハイヒールのイメージ。

奈良七重七堂伽藍八重ざくら 芭蕉

『野ざらし紀行』

こういう言葉遊びの世界も俳諧にはあった。その元は百人一首にあるという。その本歌取り。だが芭蕉の句ではないと!何と人を喰(九)った話だ。


とお桜お七八重歯の九重罪 宿仮

遠(十)くの桜を眺め、夜桜お七の九つの罪を噛みしめる俳句。

梅白し昨日ふや鶴を盗れし 芭蕉

『野ざらし紀行』

三井秋風の鳴滝のある家を尋ねて詠んだ挨拶句だという。鳴滝が空に開かられた絶景なので鶴がいたのかと詠んだとか。「西湖にすむ人」という中国の漢詩を元にしているという。「二羽の鶴」を白梅の美しさに喩えたという。主の秋風は贅沢三昧の親父だからそれにおもねるのかという批判もあったのだが、芭蕉は風流人としての秋風を尋ねたというのだが、次の招待からは断ったというのだから、そのようなことはあったのかもしれないと思ってしまう。鳴滝は龍宮の滝とも言われ、鶴は遊女を指すとも。


鳴滝や噂の真相藪の中 宿仮

我がきぬにふしみの桃の雫せよ 芭蕉

『野ざらし紀行』

桃の雫がエロッティックなものというのだが、これは挨拶句で伏見の西岸寺の老僧を尋ねたものだった。そこの地蔵に油かけ地蔵というのがあり、それにかけた句であるということ。多少老僧をおちょくったところもあるのかもしれない。

溺れたる水蜜桃やチゴイネル 宿仮

鈴木清順監督の『チゴイネルワイゼン』を連想して。チゴイネルは「ジプシーの」という意味らしい。チゴイネーというのも思い出してしまった。

「土間の王者 西山泊雲『泊雲句集』(一九三四年)から」

岸本尚毅『生き方としての俳句: 句集鑑賞入門』。第一章は虚子俳句が日常性にあることをいい、第二章は実際に日常性を詠んだ句集を見ていく。

岸本尚毅『生き方としての俳句』で、泊雲という俳人は鈍重なのだけどひとつのテーマだけで俳句を詠んだと書いてあった。これは使えるかもしれない。その分野だけは強いということ。泊雲は臼に己を託して、そればかり詠んでいたから山本健吉には「美しさ」がないと批判されたという。「美しさ」というのも個人的な指標なので、山本健吉の批評は駄目なんだと思うが例句として、水原秋桜子の句。

蓮の中羽つものある良夜かな 水原秋桜子

蓮の花の十五夜を詠んで「ぴたり焦点の合った一つの美しい心象風景」というのだが、蓮池の水鳥を詠んでいるのだという。蓮の花の中の虫かと思ったが。「つ」がポイントか。手でうつと羽ばたくの意味があるという。漢字がポイントだった。

名月や葎の中の水たまり 泊雲

『泊雲句集

「葎」も読めないと思うが「むぐら」、芭蕉の句に

山賎のおとがひ閉づる葎かな 芭蕉

『野ざらし紀行』

があり、「葎」というのは雑草なのだという。鈍重というのは、泊雲の句も調べれば名句かもしれず、それ以上尋ねなかったのは「名月」(秋の季語)と「葎」(夏の季語)の季重なりのせいなのか?「ぴたり焦点の合った一つの美しい心象風景」と言えないこともない。

土間にありて臼は王たり夜半の冬 泊雲

『泊雲句集』

泊雲にとって俳句は精神安定剤であったようだ。

俳句は私一生の糧であり又一つの宗教である 泊雲

ぐいと曳けば我が合点や田植牛 泊雲

『泊雲句集』

鈍重である句か。

「一身味方なし 岡本松浜『白菊』(1941年)」


歯朶枯るゝ一言主の宮ほとり 岡本松浜

岡本松浜『白菊』

神社系の俳句が多い。そういうのが好きな人なのか?俳句は呪術的な要素があるから。

由比ヶ浜年酒の酔ひに踏みにけり 岡本松浜

岡本松浜『白菊』

ただの酔っ払い句ではないのか?

盃を手に眺める庭出水 岡本松浜

岡本松浜『白菊』

「一身味方なし」は吉屋信子の小説で「ホトトギス」の運営資金を遊行浪費したとある。ダメな人のようだが清貧の人だという。

無心の翼 鈴木花蓑『鈴木花蓑句集』(1947年)

水原秋桜子によると花蓑は梅の木の前で雨の降り出したのも知らずに二時間も座り続けていたとか。こういう凡庸さは好きかもしれない。それで山本健吉に「低調な無個性・無感動な客観写生」とか言われる。山本健吉は嫌なやつだな。

大いなる春日の翼垂れてあり 鈴木花蓑

『鈴木花蓑句集』

春の陽光が大空に広がったようなスケール感のある句だという。塚本邦雄はグレコの絵のようだと評したとか。「受胎告知」だろうか。

あけぼのとおぼしき梅の薄月夜 鈴木花蓑

『鈴木花蓑句集』

これが二時間雨に打たれたときの句か?蕪村の「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」を連想させるという。「おぼしき」(どうやら…と思われる)が巧みだという。

団栗の葎に落ちてくゞる音 鈴木花蓑

『鈴木花蓑句集』

この句が絶品だという。何の変哲もない自然描写。芭蕉の「古池や~」に通じるのかもしれない。

現代俳句

マブソン青眼の俳句は「ア二ミズム」という情景を日本意外に見出した俳句で興味深い。



いいなと思ったら応援しよう!