
俳句界の殻を破るために
『相互批評の試み』岸本尚毅・宇井十間
◆往復書簡集
金子兜太と客観写生というそれぞれのテーマから出発して、現代の俳句に働きかけていく往復書簡集。
◆収録内容より
往復書簡という形は両者の関心や視点や見解の相違を露わにする。相手の思考を確認しながら論を組み立てる過程を読者に示すことにより、読者が「宇井と岸本はあんなことを書いているが、自分ならこう考える」と思ったとすれば、本連載は十分に有益だったと思う。
(岸本尚毅)
良い俳句作品は、それに見合うような良い読み手を必要とする。良い読み手が育つためには、読み手の言葉もまた評価されるような文化が必要である。そもそも、一般に作品を批評するということは誰かと対話をするということではなかったか。
(宇井十間)
目次
一、俳句の即物性について(1) 5
二、俳句の即物性について(2) 16
三、日常性について(1) 28
四、日常性について(2) 39
五、重くれと軽み(1) 51
六、重くれと軽み(2) 60
七、多言語化する俳句(1) 69
八、多言語化する俳句(2) 77
九、叙情と劇の間(1) 86
一〇、叙情と劇の間(2) 94
一一、一様性から多様性へ(1) 103
一二、一様性から多様性へ(2) 112
宇井十間の問いかけは新興俳句からの伝統俳句への問いかけであり、それまでそういう問いかけが無かったことはないのだが黙殺されてきた。今回岸本尚毅という相手を得て、かなりのところまで突っ込めたのだろうと思う。
俳句界の境界をルビコン川に例えて、すでに現代俳句は「ルビコン川」を渡っていたのに気づかない人がいるのが俳壇だという。そのせめぎ合いは今も続いている。「俳句」と「現代俳句以後」と。
カエサルのローマ大帝国はそれで滅んだことを考えると無視する伝統俳句側もわからないではない。しかし、次のような
俳句を読むと胸に来るものがある。その背景には高柳克弘の問いかけがあったのだ。
サンダルをさがすたましひ名取川 高柳克弘
名取川は宮城県にある川で、これは東北大震災を読んだ句である。実際に作者がその場にいるわけではなく、サンダルだけがニュース映像に映ったのかもしれない。それを劇的に「さがすたましいひ」と言霊を呼び出したのだ。これは例えば短歌や俳句でいう作中主体と言えるのかどうか?作中主体は「たましひ」なのである。それは虚構性の中にある彼岸性である。つまり俳句表現はここまでやっているのだ。
やはり俳句は日本だけのものでもなく海外にもHAIKUとして拡散されているのだ。多言語化する俳句はそういう問題を翻訳を通して見せてくれた。中でも岸本尚毅のHAIKUからの翻訳俳句は驚いた。逆に俳句からのHAIKU(英詩)も見せてくれた。そういう面白さも含めて俳句を日本だけに閉じ込めていくのは危うい感じがする。
HAIKUになったからと言って開かられた世界でもないことは、先日放映された「ETV特集 戦禍の中のHAIKU」でもロシアのウクライナ侵攻からは今まではお互いに俳句をやり取りしていたのだが、ナショナリズムになっていく危うさを感じた。それは個人を国の中に埋没させてしまう危うさをも含んでいるのである。
だからこういう相互批評の対話の試みが必要なのだと思う。宇井十間の問いかけはまさにそのような歴史性なのである。相互批評が行われずにただ上から指導に従ってきた結果何をもたらしてきたか?