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枯木立言の葉はまだ残っている

枯木立。緑の葉っぱだけ目立つように付いていた。

冬木立の名句をCopilotにリクエストしたら見事山本山の季重なりだった。

冬木立 影も薄れて 冬の朝 Copilot

Copilotあまり頭がよくないんだよな。

それをダメ出ししたら。

冬木立 影も薄れて 静寂 Copilot

静寂(しじま)も秋の季語だった。まあ、季語が制定されたのは明治になってからだということで、それまではそれほど季語について文句を言う人はいなかった。

ただ良い句か悪い句かという判断である。Copilotは当たり前すぎて凡人句だよな。俳人の名句をリクエストしたら、

冬木立 物いふ風の 落葉かな 松尾芭蕉

枯木立 馬上の人や 冬の暮れ 与謝野蕪村

見事にふたりとも季重なりで、ダメ出ししたいがこういうのはいいんだと理屈を言われそう。

今日は改行を多くして読みやすくした。

noteの書き方指南でそういう意見があった。自分は昔の人だからこういうスカスカな文章はかえって読みにくいかもしれないと思ってしまう。現にこう文章を重ねてしまう。

詩のように書くのがポイントなのだそうだが、詩と散文は違うだろうと思うのだった。後短いセンテンスだと誤字も発見しやすいということもある。

それは前にも言われたが、誤字なんて誰にもあるもんだと気にしなかったのである。誤字が耐えられない人というのがけっこう多いので驚いたり。

詩でも誤字を書いたりするので、そういうことでもないと思うが。

話が脱線していくのもnoteを読みにくくしているのかもしれない。

ただ日記の言葉は即興なので、むしろそれを歓迎していることもある。ジャズなのだ。クラシックのように楽譜通りには行かない。音のミスもある。

でも一般にカクテル・ピアノっぽいジャズは聴きやすい。フリー・ジャズとは違うな?

今日はカクテル・ピアノっぽくもなってないが。あまり皮肉とか言ったら駄目なんだ。共感を得るように書かねば。

それで話が急に飛ぶが、ジャズ・トゥナイトは「リー・モーガン特集」。18でデビューしたトランペッターだが、奥さんに浮気がバレて殺されたのが33歳。

まあ、それまでに名盤を残しているし、それ以降マイルスのようにはなれなかっただろう。

リー・モーガンの晩年の演奏にビートルズの「イエスタデイ」がある。

上手いけどジャズ特有のブルース感とかない哀愁もなく、あまり面白いとも言えない。

ビートルズを超えることはない。

ジャズの本歌取りでやっぱ原曲を超えてこそだと思うのだ。やっぱリー・モーガンといえば「アイ・リメンバー・クリフォード」だった。

けっこう他のジャズ・ミュージシャンもやっているが、リー・モーガンを超える演奏はないと言われる。ベニー・ゴルソンのハーモニーもいいのだ。

ここからどこに行けばいいか?先日亡くなった谷川俊太郎の追悼だろうか?

昨日図書館で予約本として借りたのが養老孟司『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』で人の死について面白いことを書いていた。

人の死には3つのパターンがあり、一人称、二人称、三人称の死というように。

一人称は自分の死で、これは直接的には体験できない。

二人称は近親者の死で、これは家族とかの死だから死を受け入れられないで心の中に生き続ける。

もう一つは三人称の死で、本人と直接関係ないので、それからもの化されていくということであるという。

養老孟司はイメージも存在するというか、それは死者が生きていると感じたりプラトンのイデア(アイデア)でも脳の中に現実として存在すると考える。

それが脳化社会で、ヴァーチャルな世界も現実認識するのはそういうことだと言うのだ。

一方人の発展は自然と自然を破壊していく人工的な都市化があるという。

都市化は何も生み出さない情報化社会ということなのか?脳化社会。

それが地球規模で広がっていきヨーロッパはそうした自然の森を潰して都市化したのだという。

ヨーロッパだけではなく中国も文明が万里の長城などを築いて、自然を人工化させたので黄河などは砂漠地帯を作ったという。それが黄砂とかになって日本に飛んでくる。

文明化は自然が尽きたら滅びるしかないわけで、日本にはそれを再生出来る自然があるという。

だから日本は発展していくというのだが、最近は落ち込んでいるよな。むしろ中国が終わったと思ったら発展していく。

搾取ということがあるから、その国だけでは言えない部分があるのか?

あと面白いのは埋葬の仕方で、火葬の習慣は仏教徒もので、ヨーロッパやアラブではないと言う。

そこに「けじめ」があり、塩でお清めするのも死者と断ち切るためだという。

まとまらないな。そういう死に対する解剖学的な視点と哲学的な視点があるのだが形而上学の死については、デリダ『言葉にのって: 哲学的スナップショット』があり、それは言葉が死者の精神を繋いで行くという思想なのか、「郵便的」というのはそういうことなのである。

日本だと東浩紀で誤配の方が強調されるのだが、哲学の精神の伝達ということなのである。

だから経済社会でマルクスは終わりだと言っても哲学的なマルクスの精神はデリダとかによって伝えられるということなのだ。

それは「脳化社会」と関係があるのだろうか?あるのかもしれない。

デリダの本はラジオの哲学番組を書き言葉の本にしたもので、デリダはユダヤ人だからそこに精神性とか読むのか。吉本なんかはそれは幻想だと言うのだが。

たが幻想によって動いているのが世界なのかもしれない。今日のまとめはこんなところか、そこで一句。

枯木立言の葉はまだ残っている 宿仮

言葉はイメージとして脳内で生きているということか?

長くなったな。だいたい二千字ぐらいに収めたいのだがだらだら書いてしまった。

「シン・現代詩レッスン」は谷川俊太郎をやろうとおもったのだがその前に「北村太郎」をやりかけだった。

読書はデリダ本を今日中に読んでしまいたい。昨日五冊も返却したのに、また五冊借りて、どうなっているのか、予約本を取りに行ったのに後から来た予約本を一冊残してきてしまった。どれか返却しなければ借りれないのだった。あと『蝦夷地別件』も期限が今日までだった。これは他所の図書館本だったから予約が入っている本ではないので一日二日の遅延はいいだろう。それも今日中に読む。いつもの癖で文章が重なってしまったな。

今日の一首でおしまいにしよう。

だらだと脳内垂れ流し脳化社会 それが生きる道、散文化。 やどかり

字足らずの散文になった。

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