愛の欠如を埋める言葉は自分で創造していく欲望機械
『プルーストとシーニュ』ジル・ドゥルーズ , 宇野 邦一 (翻訳)
正体不明の蜘蛛のような小説家の言葉が、一つの哲学的身体に巨大な巣をはりめぐらせ、波動を伝えて刺激し、実験的読解をうながした。シーニュ、文学機械、横断性、アンチロゴス、狂気の現前と機能……。哲学の思考に背反する思考のイメージを打ち立てるプルーストとともにドゥルーズが哲学の伝統に抗して哲学する。増補改訂後の決定版を新訳。
「シーニュ」とは、英語の「サインsign」ということらしい。いきなりフランス語で言われてもわからん。そこから想像するしかないのだ。言葉には元々の意味があって、例えばフランス語だったらラテン語起源とか。そういう起源性を求めて厳密な言語(ロゴス)を追求していくのがそれまでの哲学的態度であったが、ドゥルーズはそれを開示していく。
「問い」として、回答として収益される知識ではなく、問題を前に進めるための学問なのだ。むしろ、ここでは文学・芸術に含まれることだ。「シーニュ」という現象学あたりから出てきた言葉をドゥルーズなりに役立てる(利用する)。それは一つの直感による「啓示」なのかもしれない。神無き神託という「顕現」であるのかもしれない。
例えば幼い頃に感じていた母への愛。それは幼馴染の女子に見出すかもしれないが、母とは別の一面を愛するようになる。また父への尊敬を年上のおじさんに見出し憧れをもつようになるのも、父とは別の一面だろう。そしておじさんの恋愛話を聞きながらおばさんの若かりし頃を想像する。そうして幼馴染との幼い愛が始まっていく。しかし、それは上手く行かないものだ。母のように甘やかしてくれなかったり、逆に母のように厳しくなかったりしていい気になったりするのだ。そして、本人は余裕でまた交際は続くと思っていたら相手に彼氏が。それで落ち込む。
再び恋の再現がやってくる。その時に母→おばさん→幼馴染→アルベルチーヌ(『失われた時を求めて』のヒロインなんで、ここは純子でも百恵でもいい。適当に好きな名前にしておくれ)と変遷していく。そのとき愛の中でアルベルチーヌに見出すのは根源性を求めるよりも愛の運動として外部に開かれていくイメージなのだという。
アルベルチーヌも私の時間と共に変貌していく。最初に見出したのが過去の彼女の姿だったり母の面影だったりするのかもしれない。しかし私が愛するのは新たに更新していくアルベルチーヌの姿なのだ。アルベルチーヌという名前から彼が想起する時間も出会いから別れまで(また別れるのだ!)様々な相貌を見せている。どれが本物だろうと考えるよりは、様々な時間と共に変貌していく彼女がいる。勿論、彼も時間と共に成長していくのだろう。
愛することが例えば自分主体に思考する時に、自分と一緒にいない時の彼女を想像する。一緒にいるときでも相手がスマホでメールを打っていたりしたらそのメール相手に嫉妬の感情が湧く。彼女は支配できない他者なのだ。愛すれば愛するほど嫉妬して、彼女の不在の時間を想像した彼女で埋めていく。それは別れた後に考えればつまらないことだったのかもしれない。二人の未来を思い描いていたのなら甘い時に浸れるのだが、嫉妬の感情はどうすることも出来ない。愛の想像力は苦しいものだった。
プラトンのイデアという魂について。それが完全な形としてあるから還元できる行為が弁証法という哲学だった。しかし芸術は還元するよりも影響を与えること、それが未来を見通す眼鏡となって、開かれた芸術作品として生産活動する行為だという。
例えばルノワールの絵を最初に見たものは今までの絵画芸術に還元しても何も意味を見いだせないのかもしれない。しかし、パリの街にはそのうちルノワールのモデルの姿をした女が闊歩するようになる。ルノワールがパリの女に影響を与えたのだ。また見る方もルノワールの絵画を通して女を見るように訓練された。『失われた時を求めて』を読んでマドレーヌを食べて思い出すこと、それはプルーストの作品を通して想起することに他ならない。
シーニュがある時霧が晴れたように顕現(エピファニー)することがある。エピファニーを最初の使いだしたのはジェームズ・ジョイスだという。霧のような難解な文章の綾を通して、見えてくるもの。ドゥルーズの本もほとんどそんな感じで読み進めていくとある言葉をきっかけに紐解けるような場合がある。
芸術は愛の欠如として、愛を求める欲望だというのが欲望する機械なのか。愛の魂は、プラトンの言うイデアです。完全な形として弁証法的に還元する哲学行為ではなく、それはロゴス(言語)によるアンチ・ロゴス(ノイズ)を振り払ったもので言語化できない感情が芸術にはある。
プルーストが『失われた時を求めて』の執筆の動機は、批評家であるサント=ブーヴが作家の過去の生活から作品を批評するのに反対して『失われた時を求めて』を書いたという。それは、精神分析で母や父の根源性(再生産)に回収されてしまう自己を批判したドゥルーズと繋がることだった。プルーストは根源性に回収されないように、想起されたことを後からどんどん膨らまし続けて、新たに書き続ける長編小説は長く生産されて行った(ドゥルーズのこの本も後から書き加えられた章がある)。それは過去に回収する作業でもなければ根源性を求める旅でもなかった。次の時代の橋渡しとなるような長い作品だった。古典主義からベル・エポックへの橋渡し。そこから現代文学は影響を受けてきた。
同じような作家のマルカム・ラウリーは自分の小説(『火山の下に』)について次のように書いた。
《この小説は、一種の交響曲またはオペラとして、あるいは西部劇としてさえ考えられよう。それはジャズ・詩・シャンソン・悲劇・喜劇・道化芝居などだ。......それは、予言、政治文書、暗号文、奇妙な映画、メネ=テケル=パレスである。それは一種の機械装置としてさえ考えられる。そしてそれは動くのだ。確かに、実験してみたのだから》
ドゥルーズは続けてプルーストの作品について次のように書く。
『失われた時を求めて』の中に、ひとつのソナタや七重奏があるのではなく、この作品そのものが、ひとつのソナタ・七重奏・喜歌劇であり、さらにプルーストが付け加えているように、大聖堂であり、衣服である。
それは一つの言葉に回収される言葉ではなくて様々な相貌を見せる登場人物の、絶えず更新して生産していく欲望機械なのだ。その彼らの問いから、我々は世界を見つめ行動していくのだ。
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