現代俳句、異端の系譜
『現代俳句入門』坪内稔典編
いわゆる初心者の入門書というよりもう一歩俳句の奥の世界について語っている現代俳句批評。それまでの俳句の本に物足りない人は面白いと思う。坪内稔典の立ち位置がよくわかる本だ。正岡子規の俳句の弟子を自認しなが、虚子への反旗を翻す。それは俳句をあくまでも俳諧(連句)から独立したものと考える。その中で俳句で重要なこと、口承性と切れの問題。それは季語よりもまず切れなのだという。それは連句や短歌からの切れでもある。
口承の文学ということ。黙読するようになってモノローグの小説になったという。対話ということなのだが、諺的なことも認めている。むしろ俳句も人々に繰り返し口ずさむことによって諺になっていくという。
口語の有用性は例えば宮沢賢治の方言や中原中也のオノマトペが詩としての音楽性を醸し出していることからも理解出来ると思う。また俳句でも方言はけっこう有効なのかもしれない。
小寺勇は食べ物詠む俳人でもあった。
それは大阪という食文化の共同体が作り上げた俳句なのだろう。
芭蕉が詠んだのは和歌の雅の世界ではなく江戸の庶民の滑稽さや侘び寂びという姿であり、それは貴族文化から切れていくブルジョア文化だった。その傾向を受け継いたのが正岡子規で明治の近代化と共に自我という自意識を独立させていく。
正岡子規の周りにいた俳人は若くて名句を残していた。それは当時「新俳句」という運動の中で互いに競い合っていたからだ。その中心となった正岡子規も自分たちの俳句理論を持っていたわけだ。その中で議論しながら、切磋琢磨して名句が生まれたのだ。
碧梧桐が24歳の時の句で虚子は27歳の句だという。30歳手前の若者が35歳で亡くなった子規という座に集ってそれまでのパターン化された月並み俳句から新俳句を作り上げていく。俳句は侘び寂びの老境の文学と言われるが、過去の俳人は20代で名句を作っていた。それは彼らがお互いに批評精神を持ち合わせていたからだろう。そして彼らが新しい地平を開くことに意欲的だったからである。
27歳で夭折した芝不器男の23歳の俳句。
「個の凍結とその時代ー昭和四〇年代の問題」宇多喜代子
個としての戦後問題をさかんに議論出来たのは昭和四〇年代を分岐点として、大きく変化していく。それは高度成長期によってもたらされた豊かさが個人主義を生み出すのだけれども政治には無関心になり消費社会へと進んでいく。そんな中で俳人の結社化は進み余韻のある主婦層を取り込んでいく。そして消費されるように次々と句集が発表される。そんな中で史として刻まれる句集は、河原枇杷男『鳥宙論』と阿部完市『絵本の空』を上げる。
「身のなかの」風景は、暗く、典型的な日本の風景だという。個の魂を日本の原風景に埋没させていく俳句は個の凍結にはっきり書き換えられたとする。
阿部完市はシュールレアリズムの手法を探りながら無意識の中に個の安定を図る境地を見つけ出す。
「〈私〉の居ない風景」足立悦男
柄谷行人の『意味という病』から「マクベス論」の中の一節を持って始まる。
「意味という病」に対して、この時代の軽やかな風俗を溶かしながら嘲笑う試みがある。
最後の句は「馬鹿」が透けて見えるが。ただなんとなく意味を感じ取ってしまうこともあるような。それが『意味という病』に憑かれた近代人ということなのかもしれない。坪内稔典もその前の『春の家』では意味づけを期待して作句していたという。
近代俳句から現代俳句への試みは「意味づけ」を超えたところにある。
「現代俳句」が〈私〉性を捨て去ったとき、作品の自立性を得たとするのだが、これはちょっと疑問。なぜならジェンダーとして役割を絶えず求められる社会になったからだ。例えば日本人とか外国人とか、誰々のママとかパパとか。課長とか女子社員とか。さらにそのような社会の中で階層化されていく中でむしろ〈私〉性は求められているのではないかと思う。ネット社会で匿名でいられる自由はあるが紐付けられる身分はあるのだ。その中で自分自身は誰だかわからず虚構の世界に埋没していくことはあるだろう。
「〈発句〉の変貌ー切字論・序説」仁平勝
俳句を俳諧的付句としての発句から、独立して「俳句」に成っていったのは正岡子規の近代化を踏まえてなのだが、そこ子規の系譜を継ぐと宣言する坪内稔典における「発句形式」についてラジカル(根源的)な問いとして「連歌」からの切れの空白は日本語表現の根底にある表現の型(伝統)を乗り越えようとするものであり、季語に於ける自然の成り立ちよりも切れによる自我発露の方が重要であるという。それは金子兜太の「造形俳句」を受け継ぐものであるかもしれない。
それは良基『連理秘抄』のドグマ。
これは和歌的な雅な世界から江戸の滑稽さやイロニーと言ったブルジョアジーの台頭する世界であった。個の確立である。
しかし山本健吉は様式美として切字を求めるあまり、美学的観点から述べており、その後にはマンネリズムに陥っていく。
結局マンネリズムを否定しながら、そこに俳句固有の型があると見るのだ。これは俳句入門書のハウツー本にありがちなことではあるが、そこから抜け出せないでいつまでも型がついて廻るのだ。
山本健吉が「かな」の形式化でないとしての例で「軽く言い取って心を残さぬ心にくい『かな』である」とする凡兆の句は滑稽さを呼応しながらのイロニーである。それは万太郎の「かな」とは明らかに違うものなのだ。
万太郎の「かな」は詠嘆を基調としているのだ。山本健吉は定形の美学的形式化に囚われている。例えば現代俳句の「かな」を用いた俳句には彼の理論は通用しない。
「戦後俳句と西洋詩の交差ー高柳重信と翻訳詩」夏石番矢
日本の近代詩で翻訳詩が新しい日本語を生み出し、それが詩的言語として流用されていく。堀口大学『月下の一群』はそうした翻訳詩である。その中にフランス象徴詩人グーグルモン『水車』は特に当時愛唱された。
そのグルーモンの詩から高柳重信の作品が生み出される。
高柳重信は堀口大学『月下の一群』を病弱な青春時代に読み(特に気に入ったものは◯印が付けられていたいう)。それを自身の境遇に置き換えていった。『水車」はシオモンといは「シモーヌ」という女子との恋愛詩に繋がるという。高柳重信が煩悶する青春時代にあって影響されてもおかしくはない。
さらに同じ頃の作品では「谷」にポーの「不安の谷」(日夏耿之介「幽谷不安」)の影響も感じさせるという。
Ⅱ章は坪内稔典の現代俳句時評。Ⅲ章は坪内稔典の随筆的なエッセイである。そういえば俳人は随筆も上手いという。