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まだまだ残暑淀む空気や蝿は飛ぶ

残暑

残暑が暑すぎて何も出来ない。腰痛も出て昨日は引きこもり。引きこもってパソコンばかりやっているから腰痛になるのだが。とにかくいつまで残暑なのかというと明日までみたいだ。明日が秋分の日だということだ。天気予報によると来週いっぱい30℃超えだという。今日の一句。

まだまだ残暑淀む空気に蝿が飛ぶ 宿仮

蠅だけが元気がいい。昨日は、Netflixで『極悪女王』(全6話)を見た。もともと格闘技好きでYouTubeでも見ていたので、ドラマは予想できたが、ダンプ松本の映画というよりも長与千種の映画になっているな、と思ったのは千種役の唐田えりかがいいのもあるが、プロレスのスーパーアドバイザーが長与千種なのもあるだろうか?ストーリーとしては女子プロレスの青春物語で、ダンプ松本がジョーカー的キャラなのかな。その松本と長与の新人時代の友情や、クラッシュ・ギャルズでの長与の孤独とダンプ松本のヒールとしてのあり方、さらにライオネル飛鳥のプロレスがしたいという気持ちの女子プロレス人気の弊害と悪の組織全女のオーナー三兄弟を絡ませて面白く作っていた。

監督が白石和彌監督でプロレスシーンも見せ場となる長与とダンプ松本の髪切りデスマッチもエンタメとして壮絶に描かれていた(実際のプロレス以上かもしれない)。ただその後に長与の脱退宣言があったり、全女の解体まで話があるかと思ったら、そこまでの話はなかった。シーズン2とかあるんだろうか?

読書は『双調 平家物語』を一応読んだ。序章が中国史なので、その部分にかったるさがあるのは、登場人物が多く中国名も覚えにくい。皇帝たちの乱れた政治や「女禍」という母たちの毒殺政治(則天武后とか)、このへんは『キングダム』でも描かれていたがアニメの方が面白く見れるのは、本を読むのとは展開が違うからなのか?アニメは若き武将と王との理想の夢物語(始皇帝の中華統一が良き歴史)として描かれるが、『平家物語」は栄枯盛衰の物語なので最後は国が滅びる。それが「女禍」だったり異民族だったりする叛徒と呼ばれる者たちの物語なのである。その中心となるのが楊貴妃の養子となった安禄山(安禄山の方が年上で太ったオヤジなのに美女の息子になるのだ。それは皇帝唐の玄宗に取り入るためであったのだが、最後は叛徒となり、燕の皇帝になる)。安史の乱は面白いとは思うのだがやはり人物の対立関係が複雑なのでアニメ化してもらいたいと思った。安禄山は奇っ怪なジョーカー的人物として描いても面白そうだ。楊貴妃との取り合わせも絵になると思う(楊貴妃の中国映画はあるのだがいまいちだった。それは安禄山が描かれていないからだろうか?)

あとはだらだら時を過ごす。「シン・俳句レッスン」は碧梧桐で躓いた。「シン・短歌レッスン」は山中智恵子をやろうと思うのだがまだ出来てない。「シン・現代詩レッスン」は荷風『珊瑚集』でいいと思うが。

録画で「100deウェイリー版『源氏物語』」はコロニアム文学の視点がないからただ称賛するだけで批評がないように感じた。ウェイリーがものの「あはれ」を見事に訳したとかどうでもいい話なのだ。研究者なのだから。「あはれ」は「ああ」という感嘆詞であるという解説は良かったと思うが「ああ」を訳すのに文脈で訳していくというのは翻訳者の基本ではないのか?もともとその国にはない感情表現を訳すのである。「あはれ」は「ああ」で「をかし」は「おお」という能楽師の安田登の説明はわかりやすかった。つまりそれらは感情表現だから文脈によって意味が変化していく。例えば現代では「あはれ」が「エモい」と訳されて感心してしまうのと同じなんだと思う。むしろそこには多用な感情があるのであり、文学がその読み取りだというのは基本なのだし、むしろ『源氏物語』の無意識よりもそれを分析しようとするフロイトの時代のウェイリーの翻訳がオリエンタリズムなのではないか?という問題意識を持つべきなのだ。ウェイリー役のモダンさは当時のイギリスの資本主義社会が見え隠れするわけで、同調よりも差異を明らかにするべきだった。今日の一首。切れがないな。

従僕は女王の愛を知っている
叛徒は毒殺されるべし やどかり


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