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シン・俳句レッスン157


落葉

まだここまでは黄葉してないのだけど去年の写真。

蜘蛛の巣や空つ風葉つぱコレクション 宿仮

中七が字余りだけど破裂音二つで一音ということで特別マイ・ルール。「はっぱ」もダイナマイトの意味もあり、「芸術は爆発だ!」という岡本太郎の言葉もある。一字ぐらいの字余りは気にしない。「コレクション」が大人しく「展覧会」もあると思うが、美術展覧会は秋の季語で「空っ風」は冬の季語の季重なりは気にするのだった。蜘蛛の巣が張るような冬の淋しいコレクションというような。

あとでやるミクロコモスの世界観を詠んでみた。

ミクロコスモス

高橋英夫『ミクロコスモス: 松尾芭蕉に向かって』から「ミクロコモス」。芭蕉の俳句の世界がミクロコスモスであるという、一方にマクロの世界がありもう一方にミクロの世界があるという。なるほど写生とはミクロの世界を発見することかもしれない。

古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

声だと周りに響いていくマクロの世界になるのだが、「飛び込む」ことで一点の「水の音」に収斂されていく。そのイメージが古池というミクロの世界を心の中に作るということだ。これは面白い。また芭蕉はマクロの世界を詠む達人でもある。

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉

ミクロとマクロの世界同時に詠んだ句。

山里は万歳おそし梅の花 芭蕉

遠景に「山里」、近景に「梅の花」。

それと実際に芭蕉が最後に詠んだ句とされるのが、

清滝や波にちりこむ 青松葉 芭蕉

「清滝」の清い水に青葉松がちりのように混ざり込む様子だという。一瞬の美。

清滝や波に塵なし夏の月 芭蕉

は「清滝」と「塵なし」が付きすぎると考えていたという。まあ普通にいい句だけど。芭蕉はこの時期病んでいたので、初稿の句を病気の状態に変えたという。「青葉松」がチクチク痛む様子だという。それは流石に読みすぎだと思うが改作も甲乙つけがたくいい句だと思う。あとからイメージする世界がミクロの世界になったという。

大道寺将司

『棺一基 大道寺将司全句集』から。牢獄で詠むのでミクロの句が多いと思ったのだが、俳句を詠むことで外の世界をイメージしたのかマクロの句が意外に多かった。

一九九七年

髪切れば涼風の立つ獄舎にも 大道寺将司

「涼風」が獄舎を抜けていく感じか?

翅一枚遺して蝉の食はれけり 大道寺将司

これは写生句だろうな。現実の厳しさを詠んでいるのかもしれない。

丹田に力を込めて大暑生く 大道寺将司

「大暑」というマクロの世界か?

なめくぢ吾れ関せずとすぎゆくけり 大道寺将司

これもミクロだが写生句のようだ。

踏まれた 蹌踉よろば ひ歩む蟻五匹 大道寺将司

蹌踉よろば ひ」は「よろよろ歩くこと」。五匹は抽象的な数なのか?逮捕された死刑囚をイメージしているのかもしれない。

とんぼうや獄舎にありて人恋し 大道寺将司

とんぼが大空に飛んでいくイメージか。マクロの句。

ゲバラ忌や小声で歌ふ革命歌 大道寺将司

やっぱマクロの夢を見るのだな。

独房にゲバラの日記秋高し 大道寺将司

現代俳句

「芭蕉幻想」対馬康子

芭蕉の価値をどこに見出すかだと思う。

芭蕉が、一茶が、蕪村が、後世に残した俳諧というもの、そこに詠まれた四季であり人情であり諧謔というもの。

「芭蕉幻想」対馬康子

「俳諧性」だという意見なのだが、みんなが作る句に俳諧性があるだろうか?ノスタルジーばかり感じてしまう。

「俳句入門」対馬康子

「俳」とは、〈『説文せつもん』に「戯たわむ れるなり」とあり、もと二人相戯あいたわむ れて演技したものであろう。〉と書かれています。

そして、「諧」とは、〈本来は神霊を安んずることを言う語であった。神に対する語であるから、意味のよく知られない不思議な語をいう。漢の東方朔とうほうさく は「口諧辭給こうかいじきゅう」、いわゆる諧語かいごをよくして武帝ぶていの寵ちょうをえた人であるが、俳諧はいかい・諧謔かいぎゃくの意味も、もとは呪語じゅごに関するものであった。〉と記されています。

「俳句入門」対馬康子

「現代俳句管見記」小枝恵美子

俗言を嫌はず作する句を誹諧と言ふなり。誹諧といふ文字は唐の文より出たり。

『犬子集』貞徳

以前諺を用いた句を注意されたが、江戸俳句には諺の句もあるのだ。それが俳諧ではないのか?

「名句・名著の評論」川崎果連

ただ、一読者として率直に思うのは、「作品と思想を切り離す」という作業は本質的に果たして可能なのだろうか―ということ。むろん、さかえにしても日野氏にしても、言っているのは「程度」の問題であり「割合」の問題であるとは思うのだが―。

「名句・名著の評論」川崎果連

どっちつかずで論理が明快ではない。草田男の句は、精神的であり難解漢字を使うところが上から目線であり、新興俳句を弾圧していくのではないのか?金子兜太を認められないのもそうした理由だと思われる。「程度」とか「割合」じゃないんだよな。弾圧(批評)した事実がその作句から読み取れる。

日野氏はさかえの論敵となった(つまり草田男の句を許せなかった)俳人たちの気持ちを十分すぎるほど理解している。寄りそっていると言ってもよい。
 しかし、そのうえで氏は、思想を離れて俳句を文学として追求したさかえを称揚し、一方で、作品と思想を切り離さなかった俳人を「俳句の目的外使用」と呼び批判する。

「名句・名著の評論」川崎果連

この文章も矛盾している。「十分すぎるほど理解している」としながら「一方で、作品と思想を切り離さなかった俳人を「俳句の目的外使用」と呼び批判する。」。作品と思想は切り離せないのではないのか?

川崎展宏

をみなえしといへばこころやさしくなる 正岡子規

初句集『葛の葉』の序に置いている句だという。虚子の花鳥風月を「遊び」と解釈して、その他一切は俳句の余技だとする。

母の白いパラソル降りるドックの街 川崎展宏

絵画的な写生句なのか?季語なしか?「白いパラソル」が日傘なのか。

雷過ぎてポストの口はあたたかし 川崎展宏

何故「あたたかい」は感情的なものだろう。手紙というあたたかさ。そういう遊びみたいなものか?

牽牛織姫文字間違へてそよぎおり 川崎展宏

これは句会だろう。出した時に文字の間違いに気づいたがやり過ごす。

クレヨン一本曽我兄弟の泉の中 川崎展宏

これは諧謔性だな。泉の絵を懸命にクレヨンで描いていて力が入りすぎて折れてしまった。でも一本では兄弟にならないぞ。入鹿の名前を忘れたのか?違った話だった。

倉橋羊村

もう写真から頑固爺な感じを受ける。

黄落を滝つらぬけり落ちて藍 倉橋羊村

単純に黄葉が滝壺に落ちたのだと思うが、芭蕉の句には負けるな。俳句は勝負か?

ひとすじの仏のゆるす下り蜘蛛 倉橋羊村

遊びがないな。蜘蛛の糸が張り過ぎると切れてしまうぞ。

変色す少年倶楽部も春愁も 倉橋羊村

このぐらいのノスタルジーは好きだけど。

小宮山遠

実存俳句とは?

寒卵割るとき火事に似しおもい 小宮山遠

意味不明。卵の黄身の色の鮮やかさだろうか?早世の俳人だったようだ。推薦人の解説によると『昭和俳句史』にその名がないのは退屈極まりないという。川名大も取り上げてなかったかも。観念的すぎるのかな。俳諧味がない。直情という感じがする。なるほど実存主義的ではあるのかも。

サッカー帰る膝に泥と血のカフカ忌 小宮山遠

青春俳句だな。

太宰忌や蝉死しほかの蝉鳴けり 小宮山遠

桜桃忌は6月19日だからまだ蝉は鳴かないだろうと思う。イメージの俳句か?

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