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世界文学は読書体験だ
『世界文学をどう読むか』ヘルマン・ヘッセ(訳)高橋健二 (新潮文庫)
最初に津村記久子『やりなおし世界文学』を読んだことがきっかけで「世界文学」ということを考えた時に、それはこの本のように誰かに与えられた「世界」ではないと反発したのだった。それは著者の津村記久子も実際に、ここに出ている世界文学という統計的な(Amazon選出の本)に意義を挟んでいるのだった。
その秘密は「世界」というものを実際の「世間」と思っているのか「精神世界」と思っているのかの違いなのかもしれない。ヘッセの「世界文学」はもちろん後者の方であった。それは子供たちが文字(言葉)を習い始めてから精神世界を拡大していくこと、ある部分宗教的なものではあるが言葉が未知の世界を想起させるのである。例えば暗記した言葉から言語世界を築いていく。それは勿論母語中心となるのだ。ヘッセだったらドイツ語でその中心にゲーテがいる。私の場合、それは太宰か、ちょっと気取りたいのなら漱石ということになるのではないのか。そこから読書を拡げていくのである。最初は自国中心の小説とか(ただ母語の問題でそれに反発を感じる者もいるだろう、ベルンハルトはそのタイプだった)。
それだけでは飽き足らず現代の小説を読むとさらにその先に世界文学という世界があることをしるのだった。そのガイド本となったのは大江健三郎だろうか、あるいは高橋源一郎とか。そんな中で西欧の文学の奥深さも知ることになる。しかしそれらの作家から自国中心の精神に追いやられて周縁の世界文学もしるようになる。その中心はキリスト教文学であるのだが、そ例外の異教徒の文学の面白さを知り、ついに漢詩までたどり着いた。ヘッセもインド思想を経て漢詩の世界を見出していた。その先に日本文学もあるのだが、どうもヘッセが読んだのは日本文学の漢詩であったようだ。そこがヘッセの限界なのかなと思うが、私自身が北欧の文学をどれほど知っていると言えるのだろうか?
とにかくヘッセの世界文学というのは読書体験の本であり、それは活字を読んだということだった。だからヘッセすらも西欧中心とならざる得ないのだが、少なくともインドや中国文学まで言及している(その先の日本まで)。
そういうことなのだと思う。世界文学=読書体験であり、それは誰から与えられるものではなく、自ら推し進めていくものの体験である。その体験から世界文学は広がっていく。