![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162163415/rectangle_large_type_2_33e37b56185399ea4557cde0b378e44a.jpeg?width=1200)
菊酒や李白と飲んで空仰ぐ
昨日日記上げなかったのか。たまにはそういうこともある。「シン・俳句レッスン」が長すぎて忘れていた。「シン・短歌レッスン」も少しやったけどNHK短歌を見て「ムーミン」は好きじゃないと書いてスナフキンとミイが従兄弟だったというか一族だったというのを知った。ミイのような女の子はクラスに一人はいるよなとか、スナフキンの孤独性は好きなのかもとか。ムーミン一家はうざいとかいろいろ思うのであった。ムーミントロールという言い方は好きな感じでそれは小説のほうだったのか?そう言えば原作者の映画があったと思ってトーベ・ヤンソン(間違ってトーヤ・ベンソンと書いてしまう)の映画を観ていて寝ていた。
続きを観なければ。そうだ配信を観ていたら急にアニメも見たくなって怨霊退治のアニメを見始めてしまったのだ。それは菊について俳句を考えて
菊坂の幽霊話こわいかな 宿仮
と作ったのだ。「こわい」というのは方言で疲れたとかの意味で「こわい」「こわい」と父が言っていたのを思い出したのだった。菊で五句作らなければならないともう一句。
非国民菊の紋章模写する 宿仮
写生句を考えていたらふと菊は好きじゃないのは菊の紋章のせいだと思えてこれは非国民だからだろうか?と思ったのだった。そう言えば一昨日観た映画、『HAPPYEND』の在日の高校生の中華屋に「非国民」って書かれるのだった。『HAPPYEND』は近未来の管理システムを導入した高校の話で、それに反発するグールプ(日本国籍を持たない外国人=でも日本育ち)との意見の対立、結局高校生の青春映画になっているのだが、音楽(ヒップホップ)を通しての仲間たちみたいな話だった。かなり問題提示型映画なんだけど最後は非国民とかいう問題は解決しないまま高校生の青春映画と成ってしまった。Filmarksに感想書かなければいけないなと思っていたのだ。けっこう評価高いので悩む。確かに良い映画だとは思うのだが、ラストがファンタジーになっているというか、そこが意見が分かれるだろうなと思う。
ただ現実問題として楽しければそれでいいのか?という問題はあると思うのだ。誰もが問題を抱えていて、それでも楽しんでいるというのはあるのだけど。
風呂入って風呂ラジオは「高橋源一郎の飛ぶ教室」は『時間のかかる読書』だった。宮沢章夫は亡くなったのだった。亡くなるという動詞が出てこないので単語登録する。『時間のかかる読書』が横山利一『機械』を読み始めたのだが、あっちこっち想念が飛んでしまいなかなか読めないという本だった。確か最初に読書メーターに登録したのが『時間のかかる読書』で、まだ読み切れていないという。登録日が2010/03/16だからそれから中断したままだった。半分ぐらいは読んでいて横山利一『機械』も読んでいるのだが、なんか途中で挫折したんだろうな。本を探して読んでみようかと思った。
それは遅読ということなんだが、自分は速読で集中すれば一日300p.は読めると思うのだが最近は部屋では読書が出来ないと思うのはパソコンや動画のせいかもしれない。読書も情報と考えていて、じっくり読まなければと思う本は繰り返し読むので、最初はざっと目を通す感じか。それでアウトプット(書くこと)によって本の内容を知るという感じだが、最近は全部終わりまで読まないで途中で感想を書きたくなってしまうのは、俳句の本とかこれは合わないとか思うのがあるからだった。またいいと思ったのも途中だったりして、そうするとそれを情報として書き留めておきたいと思うのだった。日記に書いている読書とかは健忘録のための記録みたいなものだった。だから読書が情報であるというのはそういうことなんだが、高橋源一郎は読書は情報ではないという情報を送っていると思うのは、彼も乱読でその都度話題の本を紹介するのだが、それは新刊本が多い。それは「飛ぶ教室」が情報番組になっているからではないか?ということなのだが、たまにこうして古い本を紹介してくれるとまた読みたいと思ってしまう。
そういうことなんだが、いろいろ脇道にそれるという読書を宮沢章夫がしていて、それはベケット「ゴドーを待ちながら」の感覚に近いのかもしれない。「ゴドーを待ちながら」は「ゴドー」という人物を待っているウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者の前にポッツォと従者・ラッキーがやってくるので彼らの話になっていくのだか、おしゃべりがそれて中心にいた「ゴドー」は忘れられていくという話だった。実際は演劇の脚本で本も出ているけど演劇を観たほうが面白いかも。「ゴドーを待ちながら」は戦争が起きると上演されるというのだった。もともとが戦時(戦後だった、でも構想は戦時にあったのだろう)に書かれた戯曲だったか?トーベ・ヤンソンの「ムーミン」も戦時にかかれた童話だった。話が戻ったけれど、そういう情報が問題化されてあっちこっち思考が行くのだと思う。そう言えば堀田季何『星貌』という句集にも「ゴドー」の俳句が出ていた。
ゴドーを待たせる 堀田季何
俳句というか自由律の実験作みたいな。何かが降りてくるのを待っているのかもしれない。この句は自問自答であるからモノローグ的だと思うのだ。俳句は対話説というのがありダイアローグになっていないと駄目だという。それは俳諧ということから始まったからか。俳諧の発句が俳句になった説。だから後につづけられるイメージでなけば駄目だというのかもしれない。この句の場合「ゴドーを待ちながら」を知らなければ解釈も何も出来ないのだが、「ゴドー」という固有名詞から「ゴドーを待ちながら」についての句だからダイアローグとも言えるのか?だったら後に続けられればいいわけだ。
菊人形は 幽霊だった 宿仮
『三四郎』だかの菊坂のシーンの幽霊話が先の俳句で、確か菊人形展を見に行くのではなかったか?あらゆる話を繋げようとしているのか。菊の俳句五句という課題があるのだった。すでに三句は出来たな。今日ネット句会だから五句目を投稿しようか。すでに三句は投稿済みだけど、さらにいい句が出来たら変えてもいいな。俳句はダイアローグということを頭に描いてい。
で、話はどこまでなのか混乱してきたな、今日の一句にしよう。
菊尽くし酒よりもただ空仰ぐ 宿仮
空仰ぐは「ゴドー」を待っているようでいいかも。だったら
菊酒を飲んで李白と空仰ぐ 宿仮
がいいかなと思ったのは漢詩では、最近李白が好きだったのだ。李白で一句ということになった。この線はいいかも。空じゃなく月にしたら月並み俳句か?菊にいっぱい月にいっぱいで花札だな。それで行こう。重陽の節句なんだな。九九八十一とか。
重陽の菊に群がる蜂十一 宿仮
ダジャレ句は厳禁だった。季重なりだし、蜂も季語だったら三重苦だった(季語、春という説と季語ではないというのがある。だいたい虫とか季語になってしまうから)。まあ季重なりは自然と出来てしまうのだった。短歌もあるのだった。最近サボりぎみ。「シン・短歌レッスン」はやっているのだがムーミンから脇道にそれたのだった。
菊人形ムーミン一家とスナフキン ミイとママとは係争中 やどかり
スナフキンの血縁をめぐってということだった。「シン・現代詩レッスン」もこのあと。