シン・短歌レッス45
記事を削除してしまった。45は二回目かもしれない。複製から記事を書いているから完成してないのにアップしてしまい、これは未完成だったと削除したら書き換えた奴だった。こういうこともある。まあ、レッスンだから記録よりもやったことが大事なのだ
今日は藤棚。見頃だった。朝の散歩で何枚か取ったがもっと離れて撮ればいいのだろうけど掃除のオジサンがいて撮れなかった。藤が咲くともう夏だよな。今日の一句。
藤圭子を詠んだのだがイマイチ過ぎるな。夜にならないとアイデアが浮かばない。歌からか?藤の歌はなんかあったか?
複製にするとなんか変になる。元の記事も変更しようとするのだ。困るな。まあ、元の記事は削除されてもいいけど。
『源氏物語』和歌
二回目だと面倒だな。これは明石の君が娘の和歌に合わせて詠んだ歌だった。光源氏の年始回りの帖でそれぞれの愛人の所を回るのだが、最後は紫の上ではなく明石の君の部屋に泊まったのは、その娘の和歌(年賀の挨拶の歌か?)に対して明石の君の和歌の心を汲み取ったからとされている。娘の歌は、
まだたどたどしい字ということだがまだ子供なのだろう。そんな娘が精一杯努力して作った歌だが、紫式部は厳しい一言を書くのだ。それも自分が作ったくせに(もしかして違う人が作ったのか?)。
それを読んで明石の君は、思うことがあり『古今六帖・六』の和歌をその余白に書き連ねるのである。それが本歌となる。
生憎和歌だけ書き置いて明石の君は留守であったのだが光源氏はそんな和歌に心惹かれてしまったのだ。
川柳レッスン
今日は先に川柳レッスンをして、ライラック杯に備える。すでに25日の締め切り日が近くなっていた。短歌もやらねばならないから、そろそろ始めなければ。
テキストは、杉山昌善,渡辺 美輪『時実新子(ときざね しんこ)川柳の学校』。これは分かりやすい。
誰に向けて書くのかというテーマ。好きな人に向かって書くというのは一般的だが、やはり読ませたい作家にむかってということなのだそうだ。とりあえず時実新子ということになるのか?「衿噛んで」誰もわかってくれないから自分自身に向かって書いたのだとか。じゃあ、すべて自分自身の為でいいのではないのか?
まず書いてみようということらしい。この句はリフレイン的だよな。「持つくせに」と「待つくせに」。鉛筆と人。でも今どきの者は鉛筆より先にスマホだろう。
鬱なんて鉛筆では書けないよな。そんな元気があるなら鬱にならない。スマホだから鬱になれる?これ行けるかもしれない。句跨りだし鬱のリフレイン。
でも鉛筆の句は、
五七六だった。川柳はおおらかなのかもしれない。というよりリフレインが韻律を作っているのでゴロがいいのだ。
ピエロの句はよくわからん。自分自身の内面を詠んでいるというのだが、あまりうまくないと思う。ピエロがリフレインになっているが大きいと小さいの差異が旅に在るのか?よくわからない。これも五七五ではなく、七七五ではないか。頭の七文字ぐらいはいいといういうことだった。
ピエロの親子を詠んだ。イマイチだ。
「哭いてやる」の漢字表記が犬が吠えるような「おんおん」となるのか?これは使えそう。
四七五だから使えない。
これでいいか?候補。
これは恋の歌なのだそうだ。どこがと思うが、太陽は女性かな月は光源氏。ちょっと違うな。よくわからん川柳だが単に恥ずかしがり屋ということか?
いまいちこのテーマは駄目だ。恋心が無くなってしまった。
これはいいかもしれない。恋に鯉を掛けている。この発想だと。
これも候補というか、いいんじゃないか。あと一句か?
ぎんなんをこぶしで割るという空手家じゃあるまいし。こいう奴は苦手だった。もっとスマートに愛を語れないものか?
これは誰か詠んだ句のような。ネット検索で引っかからければ候補。無いぞ!候補。
「椿」の句も難しい。娘のくちびるが椿のようだったというのだ。ぜんぜんわからん。子供がいる人はわかるんだろうか?椿は俳句のもんだよな。
もはやフリースタイル。
「クリスタルタワー」も良く使われる固有名詞というのだが全然知らんよ。タワーといえばタワーマンションでしょう。タワマンで通じるんだっけ?
これは言葉遊びの川柳だけどエロ川柳っぽいかな。
「罌粟」の句もよくわからない。マリファナとかなのか?
いまいちか?
「現在地」もわかりにくいな。迷子になったということだろうか?
これもいいんじゃないか?
それでは三句。
この中からのどれか。娘の車は7文字だな。
これにしよう!
春っぽいのは、こいのぼりか?
そして、愛か?愛はありそうな感じだしな。グーグルにしよう。
川柳三句決定!
こいのぼりの句は俳句だったな。口語じゃなく文語だし。
めげずに和歌の研究。
源氏物語十首
引き続き『源氏物語の和歌』から。
光源氏に引き取られた玉鬘は蛍宮、柏木など多くの男から求婚される。柏木は実の弟なので玉鬘は返事に困るのだが光源氏はその手紙を見て批評する。そして柏木の使った「岩漏る」から「岩漏る中将」という渾名が付く。「岩漏る」は人気の言い回しになった。
光源氏の演出の蛍で蛍宮と呼ばれるようになる逢瀬から蛍宮が玉鬘に送った歌。玉鬘の返歌は。
「文目(あやめ)」は物事の分別や条理。蛍宮の体裁だけ気取った歌を引用して、やんわりと断わりを入れている。
近江君とか忘れていたな。
そうか、解説を読んで思い出した。玉鬘の代わりに内大臣(頭の中将)に引き取られた田舎娘だった。けっこう笑いを誘う話だった。ここでは名バイ・プレイヤーとされているが、はっきり言って玉鬘の引き立て役。
この歌は枕詞をアトランダムに並べただけの歌で無意味な内容なのだという。「草若み」「いかが崎」「田子の浦」という各地名の枕詞は「いかであひ見ん」という序詞になっていて「なんとかして会いたい」(姉である弘徽殿女御に)という内容だろうが、最後に本歌取りの「大川水の」を引用して、「大きい川のようです」という意味不明の歌になっているらしい。引き歌(本歌)は、
困った弘徽殿女御は侍女に代作させて返したという。
これも歌枕の羅列で最後に「松」が「待つ」で待ち遠しいということらしい。こういう歌は面白いじゃないかと感じてしまう。もしかして和歌の馬鹿馬鹿しさを知ってわざとやったとか考えられないのか?
そして玉鬘のセンスのいい和歌を載せるのである。これは光源氏が迫ってきた和歌の返歌で、そんなことしてないで早く逃げろと思うのだが逃げられないのが女の悲しい性なのか?
もろ欲望丸出しの歌というのは分かる。まがりなしにも父親代わりの光源氏がこの歌でファンの半分ぐらいがアンチになったのではなかろうか?光源氏が歌を捧げたのは、一番が明石君、二番が紫上、三番が玉鬘ということらしい。それを情熱の仕業という解説。欲望もいいようだよね。篝火はイカ漁での誘い火だったような。イカ臭い歌だと思わんのか?
『源氏物語』の重要な垣間見(盗み見)という今だと犯罪行為だが、この頃はこういうことが許されていたのだった。それで夕霧は紫上と玉鬘の姿を見てしまったという帖。明石君は関係ないと思うが、光源氏の見舞いだけ(歌はない)の返歌(独詠)ということだ。これは『御撰集』の引歌があった。
明石君の歌が比較的好きだと思ったのは絶えず待つ人であるから意味も汲み取りやすい。でも歌を詠んで紛らわせていたと思うと悲しい女性だなと思う。源氏はこの後に玉鬘と会いに行くのでうきうき上の空なのだという。
『源氏物語』の和歌の独泳って孤独を紛らわすオナニー歌のような気もしてくる。自分可哀想アピールだった。まあ文学はそういうものかもしれない。
映画短歌
今日は『ノートルダム 炎の大聖堂』。
鐘を打つ人はカジモド(なかなか名前が覚えられない)。火事の半鐘ではないのだが、「夜桜お七」を連想して。
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