眠ってしまう映画が悪い映画ではない理由(わけ)
眠たくなる映画の筆頭といえばタルコフスキーの映画だが、何故か評価が高い。『ソラリス』にしても首都高を走っているところでウトウトして、目覚めたら宇宙空間なのか廃墟なのか記憶が曖昧なのだが、実際に首都高で居眠り運転で大惨事になるよりもリラックス効果があるのだと思う。また最近『ノスタルジア』の予告編を観たのだが、『ノスタルジア』も眠ってしまってモーツァルトの「レクイエム」で驚いて目を覚ましたら、ローソクの炎を水の中で運んでいるシーンだったり、そこで奇蹟があったのかどうかもよくわからないまま印象だけは残っている(たぶん奇蹟があったのだ)。これはタルコフスキー・マジックかもしれない。
だいたい前評判が良くこれは傑作だという映画ほど細部を見逃すまいとして、集中しすぎて疲れてしまうのだ。最近そのことに気がついて眠たくなる映画は寝てもいいのだと思うことにしている。映画は幻想の世界を観せてくれるものなのである。それが夢のような世界だから印象的なシーンが記憶に刻まれる。そのシーンが強烈に記憶に残っていれば途中のシーンなんてどうでもいいのだ。最初に印象的なシーンは二回目に見ると案外あっけなかったりすることもけっこうある。夢心地というのは映画では悪いことではないのかもしれない。
先日もロッセリーニ『神の道化師、フランチェスコ』を観ていて見事に寝ていた。しかしフランチェスコの神父仲間であるジネプロが領主に虐められるシーンは強く印象に残ったのだ。道化師はジネプロのほうだったのかと思ったほどである。たぶんジネプロの脚本はフェリーニだったのかもしれない。ドン・キホーテのフランチェスコに対してサンチョ・パンサのジネプロなのかと後から考えたものだった。
そのように夢の解釈があるように映画にも解釈があるのだ。そこは個人それぞれの想像が膨らんでいく話なのかもしれない。例えばそのときに一緒に行った彼女との思い出が紛れ込んでいたり、彼女がいなくてもヒロインを彼女だと思いこんでいたり。
ただいつまでも目が覚めないで人から起こされたというのいただけないかもしれない。コロリ往生で映画を観ながらというのは理想かもしれないが。映画館ではまだそういうことはないのだが、TVだと放送が終わって試験電波が流れていたりすることはよくあるのだ(それで目覚める)。最後まで寝てしまう映画は本当に面白くない映画なのかもしれない。
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