歌よみは共感を求めるのに孤独であろうとする、それが芸術か
『誰にも聞けない短歌の技法 Q&A』日本短歌総研
短歌について何か学べる本はないかと物色していたときに図書館で手に取った本である。何がいいのかというと古すぎない現代短歌の指向性がはっきり述べられていたからである。
それは古来の伝統短歌に則るのではなく、新しい現代短歌を模索して行こうという方向性である。例えば文語や旧送り仮名をあえて学ぶ必要はないと言う。自分の短歌を詠んでいて表現の幅を持たせたいと思ったら文語や旧送り仮名を学べばいいのだ。
それは例えば今までの短歌入門書が『斎藤茂吉歌集』は必然とし、それを繰り返し読むことを進めた。しかし、この本では俵万智以来の口語短歌の時代の流れに重きを置く感じだ。
それは例題として取り上げる短歌も名歌と言われる過去の短歌もあるが、それに混じって現代短歌が取り上げられているのが、今の現代短歌の流れを知るのにも勉強になる。時代は現代口語短歌なんだよな。
その中に短歌独自の考えを示している。例えば短歌では「ふと思う」とは言わない。ふと思うことを詠うことが短歌であるという前提。そこが散文との違いか?ふと思うは、金井美恵子思いだすな。そうしてだらだら続けって行ったのが『失われた時を求めて』だった。短歌とは対極の世界だった。
「独りよがりの歌」と「共感」で、日記としての短歌ならば「独りよがりの歌」でも構わないが、読者を求めるならば「共感」性も必要だという。まあ、そういうことだな。ただそんな短歌ばかりなのだと感じてしまう。「芸術創作」の難しい点ではあるな。大衆に寄り添うべきか独自の視点で進むべきか?そういう場を見つけるのがいいのだろう。コミュニティの問題か?
寺山修司の短歌が俳句のパクリだと言うこと。結局有名人の方が評価を受けるのか?ただ寺山修司の歌は簡易化させているんだよな。わかりやすい。元の俳句は意味が汲み取れない。もっとも俳句を長くやっていた人にはそうではないのだが。このあたりの問題。玄人受けするのがいいのか、万人に理解されるほうがいいのか?後者を選びたいのだが。なかなかそうもいかない。
韻律とリズムの問題。これが一番だと思うのだが例題は文語が多いんだよな。結局文語なのかと思ってしまう。繰り返しの口語を模索しなければ。
わかりやすく書くというのが基本だという。この路線は間違いないと思う。調べなければ言葉がわからない短歌は作れないしそういうのは趣味の人に任せとけばいい。言葉を集めるワードウォッチングの勧め。
鑑賞のポイント
作中主体(短歌に登場する人物、作者である必要はない)
散文的(説明的すぎる。これは注意事項!)
定形(初心のうちは五七五七七を守る。精進する!)
破調(必然な破調もある。それを見極める。無理!)
1字空け、分かち書き(これも必要な場合)
相聞・挽歌(相聞は好きな人に捧げる。これは無理だった。イメージ的読まれたい人を想像するのがいいのか?挽歌は試みたい。人に対してではなく、去りゆく季節とかものとか。そうか、相聞もそのように考えればいいのかもしれない。
)
折句(句の頭文字を並べると何らかの言葉になる。今度やってみようか。遊びだよな。〉
「信頼できる読者を得る」難しい。
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