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ダンテ「地獄」温泉で李白と一杯
『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』四元康祐
リルケ、ディキンソン、ダンテ、そして杜甫、李白…言語の壁を超えて、詩探しの旅がはじまる。古今東西の詩人たちの深層を手さぐりし、そのポエジーを、思い切った跳躍で現在ただ今の日本語に響かせる、縦横無尽の翻訳集!
目次
私の生は拡がる波紋 ライナー・マリア・リルケ
君はもう行かねばならない ライナー・マリア・リルケ
一輪のバラ、言い争う無垢な花弁たち ライナー・マリア・リルケ
本当のことを言おう、けれど斜め横から エミリー・ディキンソン
詩人が歌う秋のとなりに エミリー・ディキンソン
魂は空を見上げ 黙って泥の外套を脱ぎ捨てる エミリー・ディキンソン
暗い森のなかの発端 ダンテ『神曲』地獄篇
地底を漂う恋人たち ダンテ『神曲』地獄篇
絶対無分節深層世界、言葉の道行き ダンテ『神曲』地獄篇
悪魔の臑毛を攀じ登る ダンテ『神曲』地獄篇
大陸の声、内なる異郷 漢詩篇
のすたるじあをおりたたむ 漢詩篇
あの月を受けとめられる者が… 漢詩篇
夢がなければ何ひとつ始められない カール・サンドバーグ
詩歌の本領は愛すること悲しむこと ジョン・ダン
歓びが孕み、悲しみが産み落とす ウィリアム・ブレイク
もうじき僕は死ぬるでしょう ジョン・キーツ
詩の言葉は他者の言葉として神に近い信仰と愛があるのは、先日読んだ古井由吉と大江健三郎の対談『文学の淵を渡る』で読んだのだが、その延長として詩の翻訳が神から授けられた言葉の伝達ということで、本来神の言葉は翻訳不可能なのである。
それでも詩人たちは、その言葉を翻訳して伝えようとすることは神秘主義のドグマに似ているのかもしれない。この本に掲載された詩人がそんなタイプが多いのだ。神の言葉なんて信じられるか、だけど愛が必要だみたいな。四元康祐の翻訳は逐語訳というような自身の時代を通しての翻訳詩なので、現代的に面白い。
リルケ「芋虫」はの前衛小説のように読める。芋虫状態の男の登場だがドゥルーズのベケット論『消尽するもの』のようでもある。そう言えばイスラエルにドゥルーズ教というキリスト教でも輪廻転生を信じる宗教(新プラトニズム)があると四元康祐『詩探しの旅』に書いてあった。次のディキンスンで完全にハマってしまった。ディキンスンの詩は原初の言葉の根源から言葉を探っていくような詩人だ。元祖ひきもり詩人か?そして、ダンテの『地獄篇』は愛に溢れたウェルギリウスとの地獄めぐり。漢詩を自由に翻訳して見せるのも面白かった。
四元康祐(翻訳)リルケ「芋虫」
『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』からリルケ「芋虫」。リルケの詩から滑稽さを感じるとは思わなかったがリルケの象徴詩が筒井康隆の前衛小説のように読めるという。それはものに憑依して騙りだすからだろうか。昆虫とかまだわかりやすいが電線だったり(宮沢賢治風?)、墓場に通じる道であったり。それは人間以外のものが住む異世界なのだがリルケはそれが天界に通じていたりするのだろう(デンパ系と言われればそれまでだが)。
芋虫
あたまのもげたひとりの男
林檎のように熟して落ちた眼球
なのにまだ息をしている
ぼんぼりのように軀の奥に灯りをともして
いきなり芋虫状態の男の登場だがドゥルーズのベケット論『消尽するもの』のようでもある。そう言えばイスラエルにドゥルーズ教というキリスト教でも輪廻転生を信じる宗教(新プラトニズム)があると四元康祐『詩探しの旅』に書いてあった。「軀」の漢字は白川漢字学の影響なのだろうか。むくろを意味しているという。奥を光らせているのは王蟲(『風の谷のナウシカ』)だな。
雪原みたいにあてどない裸の胸を見つめていると
眼の奥がズキズキと疼いてくる
伸びたり縮んだりするおちんちんなら
笑ってみていられるのに
現詩は古代ギリシアの彫刻を題材にしているという。そこにロダン体験があるというのだが、それはおちんちんなのか?ロダンの腕と見立てるのならそういう欲望も感じられるがより直接的なおちんちんなのか?江戸川乱歩にも「芋虫」という作品があり、それはエドガー・アラン・ポーから受け継がれたものだが、そういう象徴性がリルケにも受け継がれているという。思ったより世界は繋がっていた。
手足のもげたひとりの男
傷口から透明な血潮が吹き出している
空中に虹を描いて
血しぶきから虹というのはアニメのようでもあり、エヴァンゲリオンだな。イメージだから。実際は緑の血かもしれないし、角のような触覚かもしれない(嫌な匂いを出すアゲハの幼虫とか)。
たとえ生皮を剥いでも
この肉塊はわたしを見つめ続けるだろう
あの世への道連れにするために
王蟲がナウシカに言う詩という感じにも受け取れるな。
四元康祐(翻訳)ディキンソン「詩人について」
詩人見習いとしては誰を手本にすればいいのか?こういう詩に弱いのである。四元康祐は模範にしたい現代詩人の一人だけど、ディキンソンはノーマークだった。
なんかアメリカの詩人の本で読んだ記憶があった。かつてここでもやっていたではないか?忘れっぽいと言えばそういう性格なのかもしれない。
詩人について
詩人というのは
平凡な意味の世界から
比類なき感覚を引き出してみせる者
玄関先に打ち捨てられた
「玄関先に打ち捨てられた」というのは主婦感覚ということだろうか。夫がゴミを出すべきなのに忘れていきやがってとか。怒りは詩になる?
名もなき草花から
めくるめく香りを搾り取り
言われてみればまさにその通りだが
言われるまでは思いもつかないことを指し示して
この辺は俳人でも歌人でも一緒だと思うのだが、それがヒットするのは難しい。だから炎上商法(すでにマーケティングとして実証済み)か?
騙し絵を、解き明かす者
詩人というのは
世界の豊かさを示すことで
わたし達に自らの貧しさを思い出させる者
このブルジョア詩人め!なのか?お前らは貧しいと読者に向かって言うのか。それもテクニックということなのだろう。
所有から自由で
奪い取ろうにも天衣無縫
自分自身がひとつのおおきな謎として
時間外の外に佇む者だ
何かを所有しようと思う者はその物に所有されるという禅問答みたいな話で「天衣無縫」は面白い四文字熟語だった。読めないよ。時間外から眺める者というのは、同じ土俵に立たないということか?客観視するんだな。
本当のことを言おう、けれど斜め横から
急がば回れだ
おれたちのウブな歓びに
本当のことの驚きは眩しすぎるから
「本当のことを言おう」という炎上商法か?こういうのが多いのだ。そんなの一ミリも信じてないが。とりあえず掻き回しておこうとか。ただここはディケンソンよりも四元氏の私情がはいっているのかもしれない。ディキンソンが「おれたち」などと労働者階級の言葉は使わんだろう。
おれは名無しの権兵さ。お前は?
やっぱりゴンベイ?
だったらおれたち同じ穴の狢だな
しーっ!世間に奴らに知られたらまずいよ
ここらへんの翻訳は鮮やかだな。ゴンベイなんてディキンソンが言うのか?甚平さと答えたくなる。鮫の話だ。
自己表現なんて恥ずかしくって
沼の蛙じゃあるまいし 日永げろげろ
オレが、オレがと
喚き続けていられるかい!
蛙の歌が好きなのだ。芭蕉とか一茶とか。あとしんぺいも?名前はど忘れ。
ぼくは世界に宛てて手紙を書く
(もっとも返事がきたことはないが)
やさしくも威厳をもって
自然がぼくに教えてくれた単純な事柄について
最初のニ行は共感しかないな。
狂も極めれば聖
分かる人には分かるはず
マトモも過ぎれば狂気の沙汰だが
生憎それが世間というもの
世間で一番大事なことは 例によって
右へ倣え それが正気のしるし
たてつく奴はあっという間にブラックリスト
あげくは鎖に繋がれる
お見事だな。ディキンソンは実生活では引きこもりで戸外の世界を眺めていたとか。
四元康祐(翻訳)ダンテ「地獄変」
先日は散文詩をやったのだがまだ早かったな。地道に古典詩をやっておくべきだった。まだ『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』も終わってなかった。ダンテが李白に出会ってからが勝負か?
第一歌
人生のちょうど折り返し地点でのこと
眼をさますとそこは暗い森のなかなのだった
いつどこで、俺は道を間違えたのだろう
リルケの『ドゥイノの悲歌』でも、第一歌から第十歌まであるのだった、このように物語的に語るのは長編詩を作るときにはいいのかもしれない。そのときに第一歌とすればいいのだから。そうだ!七詩人の宝船の歌はこのパターンが使えそうだ。
暗い森にいた頃はフィリップ・K・ディック沼にハマって、その時にダンテの『神曲』に興味が湧いたのだ。それは『ティモシー・アーチャーの転生』でヒロインが歯痛に襲われる。その有り様を地獄篇に喩えていて、煉獄篇で歯医者の待合室でウェルギリウスに導かれていくという話。
ただ読んだのはサンリオ文庫で大瀧啓裕訳だった。大瀧啓裕は『エヴァンゲリオンの夢』でも神秘主義にハマったのだった。
「えーってことはあんた、まさかウェルギリウス?
滖々と迸る言葉の泉、ザ・キング・オブ・ポエット」
俺はのけぞらんばかりになってそう言った。
ダンテが中年の危機を迎えた時にウェルギリウスの詩が救いになったという。そのへんは聖書的な極めて大げさな比喩とか語り方とか。
私が詩を書き始めたのはあなたの詩をよんだからこそ
そしてひとかどの詩人として名を成すことができたのも
ひとえにあなたを追いかけ、模倣に模倣を重ねたおかげ
あそこ、あのおぞましい牝狼、あいつが襲ってきおるのです
おお、名高き聖賢よ、我を絶望の淵より救いたまえ
我が身の血管の、なべての恐怖に充たされてありければ」
ここでも詩は模倣から始まると言っている。言葉のエイリアン(異邦人)はそうして侵食していくのだった。異邦人といえばカミュだけど久保田早紀の歌も忘れられない。
第二歌でベアチリーチェに出会うのだった。ベアトリーチェは天使のような存在だけどここではマリア様という感じなのか?
私のお友だちが荒れ野で道にまよっているの。
潔く世俗から緑を絶ったものの、行く手を
幾度も阻まれて、恐怖のなかを行きつ戻りつ
(略)
私の名はベアトリーチェ、お願い今すぐこ゚出発を。
私もはるばる天国からここまでやってきました、
愛につき動かされて、あなたに頭を下げるため。
ベアトリーチェはダンテが実際に出会った女性なのだろうか?マリア様から聖女ルチアンにダンテを救出しなさいと命じられたようだ。あなたはダンテなのか?なんで頭を下げるのか?先に死んでしまったということかな。ベアトリーチェは天国の住人なのだが、ウェルギリウスは煉獄までしか行けないのだった。キリスト教以前の異端者(異邦人)であったから。ここがわりと辛いんだよな。三人関係で、友達を切るような。
「なにやらかぐわしい芸術と科学の薫り、
センセイ、あそこで俺の霊とは一線を画して
別格扱いされているのはだれなんです?」
ウェルギリウスは友達ではなく先生だった。『論語』とか『歎異抄』とか師が弟子に教えを授けるという形は初期の思想本に多いのだった。『聖書』もソクラテスもそういうものは文字による伝達ではなく、初めは口承による伝達だったのだろう。この『神曲』もそうしたものなのだろうか。
そのあとに大詩人が登場するのだが、皆さん地獄でうろうろしてます。世界最高詩人というホメロス、風刺文学の神様ホラティウス、三人目がオイディウス、そして最後がルカヌス(知らねー)。素戔鳴尊(和歌を最初に詠んだ人)はやっぱ地獄落ちか。中国の詩人たちもみんなまとめて地獄落ちなんだろうな。キリスト教に改心しないかぎり。親鸞が地獄落ちだったら、ちょっと笑える。法然に騙されたとか地団駄踏む姿を連想する。でも唯円も同じ地獄にいるんだから連帯責任はある。そこでお釈迦様の蜘蛛の糸がたらりっと降りてくる。
ダンテは六番目の詩人のグループと言っても所詮地獄落ちだった。いや、ダンテは天国まで上がれるんだ。どういうコネがあるんだ!そのからくりは、自分で勝手に書いたことだからという。書き得なんてあるのか?書き損じは大いにあるが。
第五歌地獄の二丁目は愛欲地獄だという。ミーノースが裁判官だという。
ミーノースは迷路の神様。誰かを閉じ込めるのだった。ヘラクレスだっけ?
力で這い上がるのがヘラクレスと素戔鳴尊なのだが、ダンテは愛の力によるものである。ただ愛欲地獄も見せられるのだった。地獄行きは美人が多いのである。それが責め苦であえいでいたりするのを見るのが好きな神はサドなのか?この辺の欲望を刺激するのも愛欲は地獄に落ちるというオタクの夢なのか。
いきなり第二十八歌に突入。もう六層も上がっていた。最近階段は苦手だ。ここは言葉使い師の処刑場だった。『悪魔の詩』のラシュディとか。ベルトン・デ・ボルン知らなかった。
父と子の惨劇親子「アブサロム」と言えばフォークナーの元ネタか?自身の種を断ち切ってしまったので自ら首を切り落としたとか。三島由紀夫かと突っ込まない。
そうだ、確か三十ぐらいづつ三層になって天国に行くのだった。でも地獄篇が一番読まれて印象的で天獄篇なんて誰も覚えてなかった。そんないいところだったのか?
そうだ。天国へ行ってもイメージビデオを見せられ洗脳教育をされるのだった。天国も失望だったというのがミルトン『失楽園』だった。