見出し画像

シン・俳句レッスン173




芭蕉の風景

小澤實『芭蕉の風景上』から。

古池やかわず飛びこむ水の音 芭蕉

芭蕉の句で誰もが知っているという、それだけで凄いのだが内容を吟味すると数々の説があって面白い。水の音は実際に聞くとしたら、かなり小さな音だという。芭蕉庵か近くの古池があり、そこから聞こえてきた音であるというのだが。蛙の飛び込む音が一音か多音かということも問題になって、小澤實は、俳句の性質として一音だというのだが。わたしはイメージしての水の音であって、古池をイメージしたあとに蛙の音もイメージしたものだと思っている。だから想像で俳句は詠めると思うのだが、写生を生業とする伝統俳句ではやっぱ実地でということになるのだろう。この時期は芭蕉は「野ざらし紀行」から次の旅への空白期にあるというので芭蕉庵でぶらぶらしていたという。その芭蕉庵に今は芭蕉記念館も出来ていろいろ芭蕉の句を愉しめるそうだ。

実際に「芭蕉遺愛の石の蛙」とか面白い。今年中に行ってみたいなと思わせる。

蕉風へ記念館飛び込む夢見かな 宿仮

君火をたけよきもの見せむ雪まるげ 芭蕉

『おくのほそ道』で同行する曽良が芭蕉庵に訪ねて詠んだ句だという。曽良が芭蕉の炊事の手伝いをして、今まさに火を付けている曽良に呼びかけた句で「君」は年下の相手を指す言葉だという。今はそういうことはないと思うが、「雪まるげ」は雪玉であり芭蕉のユーモアの句の中に曽良に対しての親しみがあるという。村松友次『謎の旅人 曽良』によると芭蕉隠密説を裏付けるような曽良の記述があるという。

そう言えば芭蕉に最初に興味を持ったのは、高橋源一郎『ゴーストバスターズ 冒険小説』で曽良が芭蕉と旅するメタフィクションだった。

君芭蕉読めよ枯野に夢の跡 宿仮

花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉

これも芭蕉庵で作られたようだ。芭蕉庵から上野の寛永寺か浅草の浅草寺の鐘が聞こえてきたというもの。花は花見の賑わいと芭蕉庵の静けさを対置したものだという。

鐘の雲花も鳥もなし枯野かな 宿仮

笠寺やもらぬ窟も春の雨 芭蕉

『笈の小文』

「笠寺」は笠覆寺で観音様が野ざらしで可愛そうだと思った娘が笠を被せたら観音様のご利益で都の貴族と結婚出来たという説話からその娘夫婦が建てたのが、この寺であるという。その寺の弟子知足の句会の興行で芭蕉に発句の依頼がきて作ったのがこの句だという。

ただ芭蕉の手にかかるとただの発句ではなく行尊と西行の歌が重ねられているという。

草の庵をなに露けしとは思ひけんもらぬ窟も袖はぬれけり 行尊

『金葉和歌集』

露もらぬ岩屋も袖はぬれけると聞かずばいかにあやしからまし 西行

『山家集』

西行が行尊の本歌取りをしたのを芭蕉が再び本歌取りしたのだな。その芭蕉の発句に付句としたのが知足の句。

旅寝を起こす花の 鐘撞かねつき 知足

『笈の小文』

「花」は俳諧ではもっとも珍重すべきものとして知足が芭蕉に添えたものという。

笠寺や くちはなの呪は解けて 宿仮

「くちはなののろ いはとけて」句跨りのテクニック。道成寺の呪が笠寺で解けたという句。

月はやし梢は雨を もちながら 芭蕉

『鹿島詣』

芭蕉は鹿島へ月見の旅に出るが根本寺では生憎の雨だったのだが、一寝して雨が止み月が出たというので、竹藪から月を眺めたが竹から雨の雫も落ちてきたという句。その前に和尚の句も残されている。『鹿島詣』は芥川賞候補になっている乗代雄介『旅する練習』は『鹿島詣』がモチーフとなっていた。鹿島はサッカーの聖地でもある。


をりをりにかはらぬ空の月かげもちヾのながめは雲のまにまに 和尚

『鹿島詣』

根本寺は蒙古来襲の時に仏法で退散させたという由緒ある寺で、また水戸天狗党の乱では尊王攘夷の砦の戦場となった場所でもあった。

天狗党梢から時 矢を放つ 宿仮

「時 や」は「時の矢」ということ。それだけの時が過ぎたという俳句。

蓑虫のを聞に来よ草の庵 芭蕉

蓑虫は「ちちよ、ちちよ」と鳴くとされたのでそれで鬼の捨子で「鬼の子」と言われたという。芭蕉は蓑虫の声が聞けるほどの静寂の中にいるという。実際には蓑虫は鳴かないのだが。この句を弟子の土芳に与え土芳の庵が「蓑虫庵」と呼ばれるようになる。

鬼の子や父を見つけに山へ飛ぶ 宿仮

湯浅 桃邑とうゆう『虚子信順』(1982年)

もうここまで来ると虚子教というような信仰だな。写生句に徹して虚子から評価されることを望んだという。

このへんの草刈鎌の長柄かな 桃邑

草刈鎌の長柄が長いと言っただけの写生句。これが虚子の云うリアリズムだとか。読み手は昔ながらに村人が労働にせいをだす姿を思い浮かべなければならない。その姿に癒やしがあるという。

灯台の方よりきたる頬被 桃邑

これの写生句のリアリズムで上のような村人を想像するのだ。ほとんど、このような句で花鳥諷詠を詠むことで虚子のお気に入りだったとか。

賓客や菊の衰へこの日より 桃邑 

俳句を作り続けて俳句の使命を全うするという。宗教かよ!みたいな。

上村占魚『鮎』(1946年)、『球磨』(1949年)

六面の銀屏に灯のもみ合える 『球磨』

『鮎』

「もみ合える」が主観を表しているが、句の輪郭としてはぎりぎり客観写生だという。

堅実な写生句は『球磨』以降に多くなるという。

本丸に立てば二の丸花の中 占魚

『球磨』

これがその代表句だというのだがよくわからん。言葉遊びの句じゃないのか?

見えてくる船が近づく花曇 占魚

「花曇」という季題が効いている句だという。季題なら写生句ではなくイメージの句なのでは?

河野静雲『閻魔』(1941年)

この句集は虚子が選定した二十九歳から五十三歳までの句を収めているという。静雲の句は寺の和尚でありながら庶民を詠んだ滑稽句に持ち味があるという。

引導の偈を案じつヽ股火鉢 静雲

「偈」を説きながら自身は火鉢にあたっている。「喝!」だろう。

みぎひだり廊下まちがへ彼岸婆々 静雲

酷いな。川柳でも相手を貶める句は良くないとされるのだが、これは愛情表現であるという。

焼酎に足とられ来る和尚かな 静雲

そういう寺なんだ。静雲の句は写生俳句と言いながら人間臭い虚子好みだという。そうなんだよな、こういう句は今は流行らないというかコンプラに引っかかると思う。

高野素十『初鴉』(1947年)

4Sの一人だが実直なまでに写生を極めたSだった。

三日月の沈む弥彦の裏は海 高野素十

海は見えてないのだという。「弥彦の裏」が海だと知っている写生句だというのだが、それはイメージじゃないのか(月が海へ沈んでいくイメージ。見えないものは写生とはいわんだろう!それが俳句特有の写生なのか)?だいたい「弥彦」という固有名詞は人なのか土地なのかわからん。

甘草の芽のとびとびのひとならび 高野素十

水原秋桜子はこの句に対して「芸術的価値」はないと言ったという。岸本尚毅はこの句は先行する虚子の句から生まれたという。

一つの根に離れ浮く葉や春の水 虚子

水草が離れて見えるが根は繋がって春になると一斉に芽吹いて葉になるという句。そういわれればそうだが、虚子の句を知らないとわからないのでは?教祖様の句は全部覚えとけということなんだろうか?

初蝶にかたまり歩く人数か 高野素十

「横断歩道みんなで渡れば怖くない」というような句だ。秋桜子は「一般文芸鑑賞家に通用しない」と吐き捨てたという。

蝶歩く百日草の花の上 高野素十

何の花でもよくないか。これのどこが写生なんだ。人間の意味付けを拒む自然界のいち場面だとか。わからん!わからないのが自然なんだと言われそう。

泊月に月の明るきことを云ふ 高野素十

『雪片』

第二句集『雪片』は『初鴉』と重複句が多数あり。無造作に編集されたので無造作に読めという。この句なんか理屈の句ではないのか?「泊月」は野村泊月で目を病んでいたのを慮って詠んだという。そう説明されないとわからない句だ。でも単に月の明るさを説明している句だというのはいいのか。

夜の色に沈みゆくなり大牡丹 高野素十

絵になっているという。このぐらいなら分かるけど向日葵でもいいような。

後藤夜半『翠黛』(1940年)

後藤夜半は決定的な傑作句があった。

滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半

これも写生というよりはイメージ句のように思える。これが写生の名手だという。

短詩型文学論

金子兜太『短詩形文学論』から「写生」について。

正岡子規が芭蕉の道(蕉風)ではなく日常性の中にある「もの」と向き合うことで「写生」という方法論で、与謝野蕪村再評価になったのである。それは詩人としても、萩原朔太郎が『郷愁の詩人 与謝野蕪村』で俳人としての蕪村評価決定的になったわけだが、それまでは蕪村は俳人よりも排画の人として絵によって注目されたわけだった。

芭蕉の句は、イメージ的な芥川龍之介に言わせると「芭蕉は大山師であった」のである。それは芭蕉が実際には見てない風景をイメージよって(それは古典和歌や漢詩から本歌取りという手法である)俳句を作ってきた。それが漂泊の詩人として、杜甫や西行に通じる道を示したのである。

虚子の方が「大山師であった」と思う。まあ新興宗教の教祖様かな。

それに対して蕪村の「写生」的手法は「もの」を見ることでそのものの世界を描き出す自己としての姿が「客観写生」と言われたのだが、「客観」という言葉は「視る」という視線のことであると金子兜太は言う。

そこでもう一度このレッスンを見直して欲しいのだが、虚子の言う「客観写生」というものは虚子の方向性によって大政翼賛的な俳句になっていく。それは虚子が「客観」だと主張するものは「主観」であり、その「主観」を持たなければ大勢の道に従うしかないということなのである。同調圧力というか、そういう世界が俳句にはあると感じるのは、有季定型の季語はそもそも誰が決めるのかということなのだ。それよりも季語的な個人の季節感の方が大切だろう。それは必ずしも「季語」を読むことではなく「無季」ということもあるのだ。戦争はそうした「季語」を剥奪してしまう。虚子はそれでも疎開先の自然を詠んだのだが。

蕪村の俳句があっても芭蕉の俳句があってもいいのである。ただそこに表現論というものが加わってくると態度の問題が出てくる。それを金子淘汰は社会性俳句に認めたのだが、マルキシズムに染まることが前衛俳句ではないのだ。

「写生」ということに関して言えば虚子派が「視る」ということを主観的なイメージでも客観写生というので混乱するのだ。これは歌人である斎藤茂吉の「実相観入」ということだと思う。そこに主観的なものが入るのだ。

一番問題なのは虚子派が実際には無い風景なのに、それを「視る」ことを「もの」という自然の世界と捉えていることである。自然の不条理感や驚愕性を入れてないのだ。そこには日本人の自然は人工的に作り出せるという箱庭的な自然感なのだと思う。不変でかわらない郷愁性(ノスタルジックな叙情)しかないとするのだが、芭蕉が見出したのはそういう自然と個の二物衝動ということで、それはただ自然に従うというのではなく、そこに狂気性があるのだった。それが蕉風ということなのだと思う。西行や杜甫が持っていた狂気性は先を視る表現としての文学だったのである。


いいなと思ったら応援しよう!