月隠す白雲はまた嫉妬す
漢詩でも和歌でも冬は月なんだが、月を愛でて思うのは遠くの恋人なのは、日本も中国も変わらない。もしかして漢詩の影響なのかもしれない。
朧月は春の月だから秋には使えないという。
こんな形にすればいいのだ。今日の一句。
月は恋人や友人なのは漢詩も同じで唐詩選の最初の方に張九齢「月を望んで遠き思う」が出ていた。月のイメージだと李白が酒を飲んでいる漢詩を思い出す。李白「月下独酌」。月の漢詩は面白い。
高橋睦郎『漢詩百首』を読み終えたので(だいたい)、『唐詩選 ビギナーズ・クラシックス』を読み始める。『唐詩選』は別に本があるらしく(岩波文庫とか)それとは違って『唐詩三百首』から選集されたということだった。中国人はこの三百首を小学生で習って暗記するらしい。中国人でなくて良かった。暗記は苦手だった。ただ漢詩をイメージするのは浪漫がある。それも書き下し文で読むのだが、中国語を読み下すという荒業は凄い。なんで読めるのかと思ってしまう。発音が全く違うので詩としては韻は無視しているのだが。
読書は、毬矢まりえ,森山恵『レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」』。これも『源氏物語』が異文化によって翻訳されているので面白い。漢詩の書き下し文も異文化だが、さらに言葉の違いでウェイリー訳がシェイクスピアを当てはめたとか、面白い発見だ。シェイクスピアは確かに感じたところがあった。
この「らせん訳」がいいのは、ポストコロニアルを踏まえているからだ。例えば白居易の影響とかも『長恨歌』からエリオットの『荒地』まで見据えて世界文学として成り立っている。それを現代の日本語ではやはり女性が従属した存在であると顕にしていく。その中で六条御息所の怨念(もののけ)とか描くのでモダニズム小説となっているのだ。六条御息所の悲しみはこの訳では際立つ。
それと末摘花を「眠りの森の美女」として描いたという。それは当時存在した「渤海」という国が黒貂の毛皮などを日本に輸出していた。その渤海の血族かもしれないと推理する。「渤海」についての本も読みたくなる。
失われた王国的な話は浪漫を誘う。まあ、こんなところか。そうだ。映画『ルックバック』をみたのだが、この手のアニメで死を美化しすぎるので本質が見えてこないというのがある。ファンタジーだからその部分で楽しめばいいのかもしれないが死のファンタジーというある共感が一元的な思考に走っていくのは、日本の叙情性でかつては特攻隊が美化されたり、それにまつわる「桜」のイメージとか、散っていく者の虚しさは感じられずに生きている者の浪漫として語られる。それは田村隆一の詩でも書かれていることなのだが。
過去を振り返るというのは当事者には必要なのだろうが、そこに美を感じるとどこまでも袋小路で解決には向かっていかない。やはりそこは未来を見るべきなのだ。それはアシスタントを使ってアニメを書き続けるということなのか?そういう問題が見えてこないというかアニメのシステムがどうも奴隷制のように感じてしまう。
今日の一首。
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