「第二芸術」からの脱却、「社会性俳句」で兜太立つ
『わが戦後俳句史 』金子兜太(岩波新書)
「朝はじまる海へ突込む鴎の死」 ― 銀行勤めをしながら俳句専念の人生を生きるべく肚をくくったときにできた句。眼前の神戸港の光景に珊瑚の海で果てた零戦搭乗員の姿が重なる。前衛俳句運動の旗手として戦後の俳壇に一大旋風をまきおこし、著者が敗戦を出発点として、独自の詩的世界をつくり上げていく過程を語る。
朝はじまる海へ突込む鴎の死
金子兜太(1919-2018年)は、「前衛俳句」の雄であるよりは「伊藤園 俳句大賞」の審査員としての顔の方が馴染み深い。最初に手にしたのがいとうせいこうとの共書『他流試合――俳句入門真剣勝負!』だったからかもしれない。生まれ年が大正八(1919)年だったことから、「花の大八」組とか西暦から「一句一句」と称していたぐらいに俳句人生。
その容姿故か俳号「兜太」からくるのか、都会的というよりは土着的なイメージが親しみを呼ぶ。そういえば、ウィキペディアに
『ビートたけしのオールナイトニッポン』初回にビートたけしが「元旦や餅で押し出す二年糞」と同句を捻ったものを第一声としたために有名になった
というエピソードもある。この岩波新書はそんな金子兜太の極めて私的な「わが戦後俳句史」とうたっているのだが、生まれたときからの俳句人生、職業俳人になるまでには長い道のりがあるのだが、その間に戦争・戦後、そして桑原武夫「第二芸術」論の賛否、日本銀行のサラリーマンからの第一句集を昭和30(1955)年に出して俳句協会賞を受賞してから職業俳人として世にでるのだった。そのぐらいに職業俳人が数少ない時代の神戸港で詠んだ決意表明の一句。
北へ帰る船窓(せんそう)雲伏し雲行くなど
もともと秩父で俳句好きの一家に生まれ村も俳句ブームだったような、農村での余暇としての文化運動が誰にでも手軽に出来る俳句だったのかもしれない。そんな共同体の有力者の家だったようだ。戦時も一兵卒というよりは、幹部クラスでそのために出征した戦地トラック島(南洋群島)の敗戦で多くの部下を失う。そのときの戦時体験がのちのち社会性俳句として開花していった。
トラック島からの帰還の船上の一句。その頃はただ感性のままに、倦怠の中で俳句が勝手に出来てきたという。そういう酔いの気分のままに戦争を体験して曖昧なまま船酔い状態で帰還する。そして、これからは船酔いは二度とすまいという気持ちで、もっと世の中を覚めて視ていこうと決意する。
帰還の列車の中でリアザノフ『マルクス・エンゲルス伝』を読んだときの一句。
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
朝鮮から身ごもったまま帰還した妹だったがあまりにも過酷な帰還だったために流産したので詠んだ一句。
霜の破損車乱離身ごもる妹に
戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ 原子公平
原子公平は、加藤楸邨に師事し「寒雷」同人。この頃は俳句仲間との討論の中で和気あいあいと、それほど意識的に句作はしていなかった淘汰が、俳句を意識していくようになる時代。師匠に加藤楸邨を、俳句のスタイルは中村草田男に惹かれていく。
戦時中に草田男が加藤楸邨に宛てた手紙が問題となって、俳句仲間たちの議論となっていく。草田男が戦時の弱々しい内面の俳句に対して加藤楸邨激を飛ばしたのだが、その当時の戦意高揚句を作っていた草田男の権威主義的な俳句姿勢が問題となった。
戦後草田男の主催する同人誌(『萬緑』)に参加を促すものがあったが、楸邨の弟子でいることを決意する。そして俳句は秩父の山奥で作り続ける。
桑原武夫「第二芸術 ―現代俳句について―」
「民衆は芸術を味わう、しかしこれを手軽に作り得るものとは考えていないのだ。日本ではどうか。芸術がこのように軽視されてきたのは、もとより偉大な芸術家が少ないためでもあるが、俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由である。」
淘汰、日本銀行復職。面接で俳句を催促される。
裏口に線路が見える蚕飼(こがい)かな
文筆で生活する意思はなく、ただ俳句を作り続けた。俳句で食べていけるのは高浜虚子ら数人だけ。「第二芸術」の虚子の反応。「俳句もやっと第二芸術になったか」と嘯く。
「新俳人連盟」分裂事件。西東三鬼脱退。石田波郷と「現代俳句教会設立」。「第二芸術」論が俳句界を揺るがす。親友の堀徹が中村草田男『新緑』を脱退。この時「新俳人連盟」事件を知る。俳句界のことは感心が薄かった。楸邨の『寒雷』からも脱退する者が出る。原子公平の言葉
桑原武夫の指摘に刺激されいた若い私たちの議論の中心は、既成俳句の批判であり、時には、直接の師である楸邨や草田男の俳句に対しても鋒先を向ける始末であった。(略)討論の末、沢木、菊池、と私が安藤に同調、金子は『とにかく俺は寒雷に席を置いておきたい』ということで話し合いは終わった。
彼らが桑原武夫の言葉に刺激されたのは、次の言葉だった。
「ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)では作者の地位を決定することは困難である。そこで芸術の地位は芸術以外のところに於いて、つまり作者の俗世間における地位によって決められるに他ならない。.........弟子の多少とか、その主宰する雑誌の発行部数とか、さらにその俳人の世間勢力といったものに標準をおかざる得なくなる。かくて俳壇においては、党派をつくることは必然の要請である。」
「神秘的団体においては上位者が新しい入団者につねに説教することが必要とされる」
河口に浪しろじろと寄り吾子も夏へ
金子兜太、長男出産。その句を桜井神主に叙情と言われる。三年後桜井は野垂れ死。
親友、堀徹の『万緑』離脱と死。清瀬療養所で詠んだ一句。
一群の遠森に蝉 病む広額(ひろぬか)
落書き地蔵も麦野も無惨に友死なしめ
『楕円率』(俳句評論・文芸誌)創刊。創刊号に「私小説と俳句」。門周至の金子兜太批評は、インテリの観念論で詩作するのは間違いないのだが、それより生活の中から生まれる生々とした現実の方が歌となる。それは「虚無」ではなく、地についた作として取り上げた。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
文壇では「私小説」と「歌俳」がやり玉に上げられていた。これに対する俳人からの反論ともども、赤城さかえ『戦後俳句論争史』がまとめている。戦意高揚歌の感情と敗戦時の慟哭は同じ質のものであり、それを冷静に見つめていかないと日本の美という観点である花鳥風月の中で同一同質の過ちを繰り返すことになるのではないか?叙情の感性論は、知性合理性の欠如、社会性批判性の痴呆状態である。
しかし、それも論調が性急で啓蒙的で図式的すぎて、抒情の日本的精神風土というものをないがしろにするのではないか?加藤楸邨は、「第二芸術」論の現代俳句は「人間性の喪失」にあり「俳壇的人間」批判は
「子規によって規定さられた写生に相応しい人間であり、虚子一門によって規定せられた花鳥風月に歪められた人間であり、或いは観念的にイデオロギーによって規定せられた形式的人間に過ぎなかった。明治以降の俳句には生きた息づく場は俳句の中になかった」
楸邨がいう人間は自分という人間であり、生活者(肉体を持った人間)であるということ。平畑静塔は続けて
「要するに私の言わんとするところは、俳句性の確立ということ、表現において俳句性の確立ということは、この俳句的表現を欲求する作家そのものが俳句的に生活し、俳句的人格完成すべきことを含むものであるということだけである。生活を俳句に引き寄せる(多くの人は俳句に生活を引き寄せるというが)というだけではなくして、自己の生命を俳句にすり替えてしまうことなのである」
桑原武夫の「第二芸術」から多くの俳人が根源的な俳句論を導き出していった。俳句のリアリズム論でも「徹底した即物主義」から山本健吉の「純粋俳句」は、俳句は歌うのではなく書かれるものとしての寓意性=滑稽が生まれる。象徴詩ではなくて、寓意詩。
野心も秋へマッチの焔指に迫り
詩と詩でないものの間。詩誌『荒地』の出現。鮎川信夫の言葉
「『詩という概念が成立するには、詩と詩でないものとの境界に於いてである。詩と詩でないものとの間に生きている人間にとって、彼を詩に駆り立てるものはむしろ詩でないものである』(略)われわれを詩に駆り立てるものは、詩そのものの空虚な美的価値の世界ではなく、詩でないもの、つまり我々が生きている現実の生活の中にあるのだ」
方方(ほうぼう)にひぐらし妻は疲れている
肉体の根源性への希求と構造的な問題意識への問いの姿勢の中で社会化していく人間。抽象的思考から直感を欲する。マルクスの肉体の根源性への希求と構造的な問題意識への問いの姿勢の中で社会化していく人間。抽象的思考から直感を欲する。マルクスのフォエルバッハ批判。
「フォエルバッハは、抽象的思惟では満足せず、直感を欲する。しかし、彼は感性を実践的な、人間的な感性の活動としてとらえていない。」
銀行での職場が次第に権力的立場になっていくに従い、軍隊時代を思い出し、やがて銀行でも「レッド・パージ」が横行していく。
夏草より煙突生え抜け権力絶つ
組合活動で原爆投下の広島・長崎を周り、組合活動を脱退。地方勤務として福島から神戸へ。朝鮮戦争や軍事景気の最中、「社会性」俳句という俳誌の特集によって、また俳句に近づいていく。「即物的日常」の中に社会的事象との接点を見出していく。社会性は作者の態度(作風)である。
もまれ漂う湾口の筵夜(むしろよ)の造船
長崎に転勤して原爆の街と隠れキリシタンの伝承を知る。
殉教の島薄明に錆びゆく斧
昭和35年に東京へ戻り、安保闘争の中で樺美智子死去。
デモ流れるデモ犠牲者を階に寝かせ
また新興俳句の担い手富澤赤黄男と西東三鬼が他界する年でもあった。
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島
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