劇場型幼児性異端者の系譜
『異端の肖像 』澁澤龍彦(河出文庫)
狂気と偽物による幻想の城ノイシュヴァンシュタインを造らせたルドヴィヒ二世。神秘思想を体現した二十世紀の魔術師グルジエフ。数百人ともいわれる幼児虐殺を犯した享楽と残虐のジル・ド・レエ侯。ルイ十六世の処刑を主張した熱狂的革命家サン・ジュスト…。彼らを魅了した魂と幻影とは何だったのか。そして孤独と破滅とは何だったのか。時代に背を向けた異端児達を描くエッセイ。
澁澤龍彦は遺作となった小説、『高丘親王航海記』を読んだぐらいで、ノーマークの作家だった。サドにも興味なかったし、なんとなく苦手の部類だと思っていた。
たまたま古本屋で手に取って興味を惹かれたのは「生きていたシャルリュス男爵」が目に止まったからである。プルースト『失われた時を求めて』の重要人物。今現在読んでいる『失われた時を求めて』があまり進まないこともあり、ちょっとテコ入れのつもりで読んでみた。
実際のシャルリュス男爵とされている貴族の倒錯的嗜好(同性愛は、今はそんなことはないが)とプルーストとの関係。まあ、だいたい小説に書かれるようなことはあったと。それ以上の下ネタ話もあるのだが、一つだけ感心したのが、それらが幼児性に結びつけらたところだ。『失われた時を求めて』の語り手の幼児性は、彼ら(プルーストと男爵)に共通するものだった。
「パヴァリアの狂王」のルドヴィヒ二世についても、幼児性が問題とされた。彼に接見したワーグナーは、その美貌な皇子について未来の暗い予感と共に描いているが、ルドヴィヒ二世がワグネリアンだったのは、音楽や芸術に理解を示したわけではなく、そのスペクタクルな演劇性に、自身を重ねたのだという。
例えば現在のヒーローものの映画に自分自身を重ねて、それを自身の城の中に持ち込んで夢遊病者のように人生を過ごしたのである。金持ちのオタクというところだろうか?晩年はぶくぶくと太り、青年期の美貌の姿はなかったという。
「幼児殺戮者」は、ジャンヌ・ダルクと共に戦った武将ジル・ド・レエの晩年の青髭と呼ばれた「幼児殺戮者」としての姿をバタイユによって説明する。それも幼児性というキーポイントとなる。
バタイユによるとジル・ド・レエの武勇も「幼児殺戮者」も同じ範疇にあり、古典主義的な武勇伝に惹かれる幼児性だという。それが戦時には武勇として役立つのだが、平時にはその暴力性を向ける相手が子供だったということで、しかし、彼はそのことに悔いていてそれがまさしくキリスト教的な懺悔となるのだった。そして、劇場型と言われる者たちの一人なのである。
「恐怖の大天使」サン・ジュストもそういった者の一人で、極端な善(正義)なる意識を振りかざし、フランス革命でルイ16世をギロチンに送った。彼も美青年の共通点があるのだが、それでいて残酷さは周りの者がそうした美貌に惹かれてしまうことにあったのかもしれない。そうした美意識は、幼児性と一体になると、ユートピア的夢想と化していく。
澁澤龍彦もそうした幼児性を抱えていたからこそ、彼らを無視することは出来なかったのだろう。優しい関心というような。彼の遺作となった『高丘親王航海記』は彼らを誘うもう一つの世界なのだ。