大きな賞の選評は役に立つ
『短歌 2022年6月号』
【第56回迢空賞 発表】受賞=大下一真歌集『漆桶』
こういう賞は受賞作が理解できなくとも選評が理解を助け参考になる。
佐々木幸綱『新仮名の僧の歌』で新仮名使いの歌だからと反対意見があったそうだ。確かにカタカナは、和尚とはそぐわない感じもするが、短歌だけで和尚と思うわけでもなく経歴を参照するからだ。その部分で未だに「私性」を離れられない短歌なのかとは感じてしまう。和尚にもいろんな人がいるのだ。
高野公彦は、あえて新仮名使いだけど、そこから仏性を読み取ろうとする。そこの部分はよくわからなかった。でも母を思う気持ちは厳密に言えば煩悩だよな。出家者なんだから。そういう仏教の変化(俗習に傾く)と短歌の変化とは共通性があるのかもしれない。イズムではない歌だった。
【特集】人称フロンティア
短歌は「私性」と言われるように、その歌に詠み手が潜んでいるということでは一人称の文学とされているのだが、最近は虚構短歌も多く、それが改めて取り上げられているようだ。
一人称と言ってもプルースト『失われた時を求めて』のように作者と語り手が一致しない(むしろそのように描いた)小説もあるし、俳句ではそういう一人称は廃する方向にあるので、なんで一人称にこだわるのか不思議だった。
確かに短歌では我や君を読み込んで感情表現すればいいぐらいに思っていたのだが。ここであえて一人称にこだわる人はちょっと頭が堅いと思ってしまう。
そんな中で斎藤斎藤氏の「神について黙るときにわれわれの語ること」が理解でいた。ようは暗黙の了解というやつで、宗教性とは言わないが共同体的な暗黙があるのだと。
坪内稔典氏は俳人だから、その点は最もだと思える。それは「私性」というとき、詠み手のことしか考えていないので、「読み手」との共同作業的な作品になると人称なんてどうでもいいというか、作者中心の世界はどうかな?ということです。そこに難解になりすぎる古典主義的短歌があるのだし、最近の口語自由の現代短歌ではその辺は問題にしてないと思う。それも内輪ばかりになるという所がない面もないが。
ようは開かれた文学であるかどうかなのだ。短歌が「私性」にこだわるのは閉じられた文学だからなのだと思う。作品は子供と同じで生まれたら、親の元を離れて勝手に成長してゆくものだ。いつまでも子離れできない人が多いのだろうか(権威的な人に多いような気がする)。
作品 江戸雪『卵』
作品では江戸雪『卵』は口語現代短歌でわかりやすかった。「卵」の日常性と言葉のイメージから(村上春樹のカフカ賞受賞の言葉だろうか?卵を弱い民衆に喩えていたのは)社会性へ落とされるときに感じる悲鳴というような。
歌壇時評「パラダイムシフトの時」前田宏
ロシアのウクライナ侵攻時に時事短歌がずいぶんと読まれたそうだが(この号でもウクライナの時事短歌がずいぶん読まれている)、普段短歌をやらないものは目にもしなかった。あるは、コロナ禍やマスクと言った人間相互の分断、地球規模の分断があるという。そうしたパラダイムシフトを明確に短歌で捉える瞬間というのは大事だと思う。
この時評の中にも触れられているが映画『ひまわり』のウクライナの状況というよりも「うたの日」のお題として歌った一首があった。それはロシアのウクライナ侵攻も頭にあったがそれとは別の日常性も詠んだつもりだ。
パラダイムシフトと言えば外部の変化からくるものもあれば内部からの変化からくるものもあると思う。私の中での短歌化というパラダイムシフトがあるのは事実だ。短歌関係の言葉のわからなさがあり、例えばこの時評では断り書きを「詞書」というように、テーマ詠での連歌も連作でいいのだった。こういう批評での特殊な世界の言葉、例えば「私性(わたくしせい)」は短歌ではそれが前提なのだと初めて知った。その特集が「人称フロンティア」なのだ。すでに小説のジャンルでは語り手=作者でさえ疑わしきものになっている。プルーストの例とか。そこでフィクション短歌に惹かれるのは当然として自分の中の文学としてはあるのだった。
あと「うたの日」は学生の短歌同好会の繋がりがあるというのは事実のようである。それで極端に多い♪とかの謎がとけた。そういうところに参加してないものは♪は少ないのだ。ただ❤は一つしか与えられないので、そこの部分は実力がものを言う世界のようだ。♪には惑わされてはいけない。
書評 鈴木智子『舞う国』
素晴らしい。言葉の追求から象徴的イメージを取り出すというのは塚本邦雄的なのかな。でも古典じゃないからわかりやすいかも。「プレパラード」だけだよな。意味不明なの。