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シン・現代詩レッスン66

田村隆一「九月 腐刻画」

この詩はもともと1956年に書かれた「腐刻画」のリライト作品であり、戦後の廃墟の街を徘徊している隠居老人というような詩であるという。田村隆一は戦時世代の人だから敗戦の記憶や復興の記憶が鮮明にあるのかもしれない。われわれがそれに倣うことが出来るのか?

九月 腐刻画

一九四五年八月十五日の正午の
太陽
は空中に吊りさげられたまま

四六年の夏は
米軍の大空襲で東京は灰になった その
巨大な焼き畑から夏草が生い繁り
秋にはスズ虫が鳴いた 下町から
山の手までスズ虫のさわやかなコーラス

水だけはおいしかった
東京で生き残ったのは水道管と鉄道
 舞台の書き割りみたいに焼け残った丸の内と銀座
ぼくは上野から浅草の
新橋から渋谷の
闇市の迷路をさまよういつづけ
新宿駅前のハモニカ横町で
カリトスを飲み 焼けビルの壁に向かって
小便をひっかけた

田村隆一「九月 腐刻画」

戦後の暗いイメージがないのは田村隆一の特徴かもしれない。ただそれは遠く過ぎ去ったイメージがもたらすものかもしれない。スズ虫なんて東京にいたのか?コオロギぐらいしか聞かないが。スズ虫で思い出すのはユーパックのスズ虫で配送の間中鳴いていた。翌日には死んでいたかもしれない。

はっきりした年代を思い出すのはミレニアム2000年で、その前後にいろいろ事件があったと思う。

1983年の暮、オーウェル『1984』は
池袋芳林堂書店に平積みにされていた
ぼくはそれを年内に読まないと年は越せないと思った
世紀末はやってこない
ぼくらは『終わりのない日常』読んでいた

ロサンゼルスオリンピックのTV音声の中で
巨木の伐採のバイトをしていた
敷地圏争いの境界の木だった
小さな争いは日常茶飯事でもぼくらは気にしなかった

バイトが終わるとジャズ喫茶巡りだった。
新宿のDIGはあったのか
DUGはあったけど渋谷は「ジニアス」
お気に入りは神保町の「響」と「コンボ」だった
上野の「イトウ」にも行ったし
なんなら横浜の「ちぐさ」や「ダウンビート」も

男女男の三人関係がずっと続くと思っていた

やどかりの詩

一九四七年になると
宙吊りになっていた正午の太陽が
やっと地平線に向かって まっ赤に燃えながら
落ちて行くようになった ぼくも
ぼく自身を見つけるために
銀座に出ていく気になった イギリスのスコッチウィ
 スキー
 ウェストンミンスターやネイビィ・カットのシガレッ
  トは影をひそめ
日本刀と交換にG.Iから手に入れたのは
ラッキー・ストライクとバーボン・ウィスキー
ハードボイルドのバルブ・マガジン

田村隆一「九月 腐刻画」

劇的な変化だな。田村隆一はモダン・ボーイというような詩人になっていた。アメリカ人との物々交換のバブル時代。

1989年の「天皇崩御」「ベルリンの壁崩壊」「天安門事件」時代は大きく変わっていた
しかしぼくらは潰れたジャズ喫茶の下
カラオケスナックでJの中森明菜やテレサ・テンを聞いていた
アル中になったYはいつも酔いつぶれていた
彼は絶望していたのだ
慰謝料の金で飲み、それ以上の借金を重ねていたYだった
こうしてバブル時代は過ぎていく
ミレニアムの思い出もないままに
父の遺産とバブル女と
どこか狂っていたと後から思ったのは
ヘネシーもナポレオンもをただのウィスキーだと思って飲んでいた
すべてが不動産屋の旦那のお歳暮かお中元

やどかりの詩

詩に出来ないな。散文になっている。この時代はほんとバブルだったな。バブルに染まらないようにしていたんだけどバブルになったのは、友だちの自動車事故の慰謝料と父の遺産だった。どうしようもないな。毎日飲めない酒を飲んでいた。それがあってか30過ぎてからは酒を飲まなくなった。嫌な思い出があるから。なんか腹立たしいと思ってしまうのはあんなに上手く行っていたと思ったのに、バブルだったと気づいて、急に去っていく友たち。自分もそうだったのかもしれない。次々と彼女を変えたり、やっと落ち着いたと思ったら理想が高すぎた。

ぼくは太平洋戦争前後の文学青年たちが南の島から
 大陸から
帰って来るのをひたすら待つだけ
ポツリ ポツリ 「荒地屋」にあらわれたのは
10パーセントの文学青年たち 90パーセントは
戦死 戦病死 病死 自殺 行方不明
祖父は八十歳 晩酌に焼酎一号
神棚にはお稲荷さんが祀ってある

田村隆一「九月 腐刻画」

内実は結構悲惨な状況なのだが、その一方でアメリカの豊かさがあったということか?このあたりはあまり変わらないような気がする。ただ死人はいないが、いまどうしているのか?ここまで生きているのが不思議なくらいに刹那的に生きていた。

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