シン・短歌レッスン10
今日のメニュー
白熊杯への投稿。連作小説の続き。シン・短歌レッスン10
。このぐらいにしておこう。やることの目標を上げとかなければそのまま一日を終えてしまいそうだから。それに今日は引き籠もり日だった。映画も一本観たいし、本も一冊読んでおきたい。あれもこれもで結局手につかにタイプか?
塚本邦雄短歌
塚本邦雄の著書に『西行百首』というのがあったが、そういう過去の短歌と対決していたのだろうな。塚本邦雄は自身の短歌もそうだが評論が多いことでも歌壇の論理派ということで評価されているのだろう。
西行の花と言えば「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」に代表される歌に対峙して、西行と刺し違えたいという願望は、塚本の短歌に対する決意であり意思表示であろう。
模範十首
終わりにしようと思いながら終わりに出来なかったのは中城ふみ子の短歌はやはり「乳房喪失」後から短歌の雰囲気が変わるのだ。それまでのセンチメンタルな家風が消えて、厳しくなっていくような。
凄い短歌だと思う。ここにはセンチメンタルのセの字もない。そういう厳しい現実に向き合って短歌を作っていたのだ。この鼻癌患者の声が聴こえてきそうな歌。
『ひたひ髪』のモチーフになった短歌だろうか?髪は「乱れ髪」もあるように短歌のモチーフになりやすい題材だが、ここには母と子の幼き想い出としての歌だった。「母の手よわれは」は「母の手弱れは」と「母の手よ我は」と掛詞になっている。
母と娘の歌なのだが、ちょっと普通とは違う親子関係だ。
母に甘えたい病んだ娘の長距離電話。センチメンタルよりもリアリティの歌だと思う。
『忘却』は忘却される自分自身を詠んでいるのだが、まだセンチメンタルな歌かもしれない。
「きみ」ではなく「かれ」というすでに別の現実を生きている諦念があるような。
ふみ子にとって樹木は癒やしの場だったはずだが、そこからも疎外されてしまっている。
すでに愛撫されていた日も遠くなる日々の成り行きだったのか?
『銃口』のモチーフになっている歌。偶然の出来事が必然になるような。ここでは子の意志は関係ないと思うがそれが彼女の運命だったのだ。
死を演じるかのような歌はそれを望んでいたのだろうか?それが演技であればあるほどその絶望感は深いような気がする。
『兜太百句を読む』
俳句がおろそかになっていたので今日は俳句の模範十句。
金子兜太は糞尿俳句が好きなのは、それが生の証だから。それでもこの句は暗すぎると本人の弁。「青草に尿燦燦敵機来る」とセットだが、こっちは若者の無謀さを出している。
下半身を堂々と詠うのも生の証だからだろう。
原爆の句は「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ」が有名。蟹は「古手拭」の句と同じ意味だとしたら生を表してるのだろう。
「きよお!」という擬音が面白い。小文字や記号を普段からつかわないようにしているのだそうだ。この感嘆符は勢いを出すためか?
暗闇からの脱出。
「朝はじまる」は再生の句。非業の死のあとの朝の情景。鴎はゼロ戦の象徴。
なぜ烏賊なのかというとたまたま前日に水族館へ行ったからということだった。わからんよな。
次もわけわんない句だが、「か行」で音韻になっているのだ。
マラソンの句は、これぞ「前衛俳句」というのだそうだ。それを草田男に添削されたという。こんな俳句は駄目だと。
「白熊杯」候補作
とりあえず今年詠んだ句から三作選んでみる。
大寒を持ってくるのだったら小寒もセットで揃えたいが、好きなのは蝋梅と水仙かな。成人式も蝋梅とセットにしたいが。
今日中に決める。あと春節も詠みたくなった。
韓国では参鶏湯は夏の季語だとか。駄目だな。これは映画短歌の方に回そう。
映画短歌
『スープとイデオロギー』